今していることがいつも通りと言えるようになった頃、一人の使用人がやって来た。動作は落ち着いているように見えるが、微かに息が上がっている。なにか慌てることがあったのだろうか。
王子に下へ行こうとしたスイは動きを止め、どうしたのかと目で問いかける。
「スイ……様?」
「⁉」
確かめるような声音で言う使用人に、スイは驚きの声の代わりにめいっぱい目を開く。
どうして彼女が自分の名前を知っているのか。この人間の脚を手に入れるため、声を失ったスイには名乗ることはできないはず。
海の中の誰かがスイの名前を教えたのか、いや、それは無い。それならなぜ?
考えられる一つの理由があるが、その理由は間違っていてほしい。
「少し、ご相談があります」
「……?」
相談だと言われても、言葉を発することができないスイにはなにもできない。それを解っているはずなのに、この使用人はスイに相談があると言う。
「先程……海の中へ続く階段で人がいたので保護をしたのですが――」
その言葉で察する。この使用人がスイの名前を知っている理由、それは聞いたのだ。自分と同じ、海から来た者に。
使用人に連れられてやってきたこの部屋、たしかスイの記憶では、城の外からやって来た人が通される部屋だ。
使用人が先に扉を開ける。
「こちらへ」
その言葉で、スイは部屋へと足を踏み入れる。そして、部屋に入った瞬間、あまりの衝撃に目を開くことしかできなかった。
「スイ……⁉」
どうして彼女がここにいるのか。姉達の中で一番可能性があると思っていたが、予想をしていたが、そんな心構えなんて無駄だった。ただ心の中を埋め尽くすのは困惑と恐怖の二つ。声まで失ったのに、足を突き刺す痛みに耐えているのに、そこまでしてまで欲しかったものが台無しにされるような予感。
「翠……会いたかった……」
アオが脚を引きずりながら、倒れ込むように抱き着いてくる。アオの体重を全身で受け止める、ぐったりとした様子で、アオもあの痛みに耐えているのだと理解する。
涙ぐんだ声で囁くアオに、スイの身体は杭を打たれたかのように硬直する。
今までのアオとはなにかが違う。アオであってアオではない、スイを見る目が変わったような、今まで感じなかった感覚。
「大好き、愛してる、もう離さない」
今までのアオなら絶対に言わないような言葉を囁く。
この言葉は、アオよりも王子から貰いたい言葉だ。こうして会いに来てほしいのも、アオではなく王子だ。
「――‼」
スイはアオを力いっぱい引き離す。アオは欲しくないのだ。大切な姉達の一人であることは変わらないが、今のアオはスイの知っているアオではない。
離さないと言っていたが、足が痛くて踏ん張れないのだろうアオは、いとも容易くスイから離れた。
バランスを崩して、壁に手を突き座り込む。信じられないものを見るような目で見上げる。少しだけ、心が痛むがそんなことなどどうでもよかった。
スイは背を向け、無意識に王子の部屋を目指す。そして使用人は既にいない部屋で、アオは歯を食いしばって立ち上がる。
「翠……なんで……」
翠に拒絶された。なんのためにこんな場所に来たんだ。
片眼を失い、歩くたびに足が刺されたように痛む。これ以上頑張ってもなにになるのか。
この世界でなにをするのか、目的を失いかけていたアオ。鼓動が早くなり、意識が遠のく。ようやく立てそうだったのに、また崩れ落ちる。どうしてこんな状況になっているのかは理解できない。冷たくなった手が震えて、やがて全身に伝播する。
「君が……?」
意識が途切れそうになる直前に聞こえた声が、アオの意識を引き止める。
その声が、忘れかけていた目的を思い出させてくれた。腹の底から燃え盛る炎が身体の震えを止め、燃える血が全身を巡り意識が爆ぜる。
顔を跳ね上げると、思考が殺意に埋め尽くされる。
スイを本気で怒らせるために必要なこと――この男を殺す。
今すぐこの男に飛び掛かり、その頭を硬い大理石の床に叩きつけてやろうかと思ったが、冷静に気持ちを落ち着ける。
ここに来る前に決めていた通り、この男を確実に殺せる時まで待たなくてはならない。
今この場で飛び掛かったとしても、アオの力では殺すまでには至らないだろう。武器の類は三日目に姉たちが渡してくれるナイフしかない。
この男のおかげでやるべきことを思い出したアオは、努めて冷静に振る舞う。
さっきまでの様子はどこへ、足の痛みに顔を歪めることも無い。
「妹がお世話になってます」
纏う毛布が豪奢なドレスに見える程優雅に礼をする。
王子の後を追ってきたスイが、また驚きに目を見開くのが見えた。
「妹……?」
王子がスイとアオを見比べる。
人魚姫達は皆美しく、アオとスイが姉妹だと言われても誰も異を唱えない。
「妹に会えたのが嬉しくて、つい取り乱してしまいました」
そう言ってスイに微笑みかける。
その笑顔は、スイを翠として見てはおらず、やるべきことを改めて決意したアオとしての表情だった。
こんな短時間でまた変わってしまった姉の雰囲気にスイは混乱を隠せない。
言葉を発することはできないが、口程にものを言う目がスイの気持ちを伝える。
「服を与えてどこかの部屋へ案内を、後で話を聞こう」
手早く使用人に指示を伝えると、王子はスイに向き直る。
「部屋へ戻ろうか」
優しくスイの手を取り、部屋へ戻ろうとする王子。
「こちらへ」
使用人がアオに声を掛ける。
湧き上がる殺意を抑え込みながら、アオは素直に使用人について行くのだった。