「うぎゃっ‼」
のっぺりとした白に囲まれた、部屋のような、空間のような場所に碧はやって来た。
やって来たというか、落ちて来た。落ちた衝撃は感じたが、痛みは感じない。もしかすると、落ちた衝撃すら、本当は感じていなかったのではないかとも思う。
「なに……ここ……?」
確か自分は、魔法使いに貰った薬を飲んで、あまりの痛みに意識を失ったはず。本来なら、目が覚めてもあの世界にいるはずなのだが、こうして訳の分からない場所にいる。
「もしかして⁉」
そこで最悪の結果を想像する。あの世界にいる途中でこの場所へ来てしまった。それはつまり、失敗したのでないかと。それか、アオが死んでしまったかだ。
碧は自分が痛みに弱いという自覚はある。でも、あの渦に巻き込まれた時は生きていたみたいに、アオは頑丈なのだ。そんなアオがあの痛みで命を落とすはずがないと思うのだが――。
「もしかして……、スイになにかあったの……⁉」
自分のことよりも、スイのことへ自然と考えが向かってしまう。
スイになにかあったのだとすれば、それは一体なにがあったのか。
――もし王子が、ほかの誰かと結婚してしまうと、次の日の朝には、お前さんは海の泡となって消えてしまう。
魔法使いのその言葉を思い出す。
もしかして、王子は他の誰かと結婚していて、アオが意識を失っている間に朝が来てしまったのではないか。
終わった……。
翠の感情を解放することに失敗してしまった。それ以外考えられない。
胸の奥深くから、絶望という名の黒い靄が溢れ出て、碧の視界を染める。その場に膝を着いた碧。夢であってほしい。これは夢だと言い聞かせる。
すると、視界を染めていた靄が晴れ、妨げられていた景色が見える。
その景色はさっきみたいなのっぺりとした白一色の部屋ではなく、ポリプの森なんて比では無い程の目を背けてしまいたい景色だった。
辺りは薄暗く、鋭い牙のように山々が並ぶ、空を見上げると血管が這うように赤い線が引かれていた。
本能的にここはまずい場所だと感じた碧は、その場から立ち上がることさえもできない。
微かに聞こえる人の叫び声が、ここはある場所ではないかと、碧の記憶から出てくる。
「地獄……?」
本で読んだだけ、それでも、この場所が地獄だということを感じてしまう。
鬼が罪人に罰を与える場所。禁術を使った碧が来るはずだった場所。
でもなぜ、地獄へ来なければならないのだ、碧は元の世界で罰を受けたはず。
「なんで……」
『怒』の世界で失敗してしまったからといって、なぜ地獄へ来なければならないのか。
やはりこれは質の悪い夢なのではないか。
溢れて止まらない涙で顔を濡らした碧が、ふと感じた気配に顔を上げる。その時視界に入ったものを見て、碧は息を詰める。
両目が見えるようになっている碧でも、目を細めなければ見ることのできない距離、かなり離れているはずなのに、そこにいる者は目を細めずに見ることができる。相当大きな者だということだ。
全身が赤く、頭から黒い血が垂れているかのように見える髪を持ち、そこから覗く二本の角は黒曜石のナイフのよう。碧の呼吸を止めてしまう程の殺意に満ちた鋭く恐ろしい眼で、筋骨隆々、その場からひとっ飛びで碧の下までやって来れるのではないかという身体、その手には触れただけ人間が挽肉にされてしまう金棒を持っている。
地獄に存在する鬼だった。
そんな鬼が、遠くから碧のことを見ている。
逃げることもできず、叫ぶこともできない。これからあの金棒で叩き潰されるんだと、恐怖とそれ以上の諦めが碧の意識を追い出す――。