「スイ、そろそろ帰ろうよ」
不穏な空気を察したアオが帰ろうと言ったと同時に、船の帆が下ろされ、今までよりも速く走り出した。瞬く間に波が荒れ、遠くの方では雷が光る。
走る船が上下に激しく揺れながら突き進む。
ジェットコースターみたいで楽しそうだとアオは思ったが、人間達にとってはそうではないだろう。元の世界や、前の世界での記憶があるアオだからは危ないという発想に辿り着くが、この世界でしか生きていない、この世界のスイはまだそこまで考えが及ばない。
穏やかだった海が一変、船は軋む音を立てて、荒れ狂う波の上を走る。
あまりの激しさに、船のマストは容易く折れてしまい、船もバランスを崩す。
船乗りたちの怒号が、叫びが聞え、スイもやっとこれは大変なことになっているということに考えが及ぶ。
「危ないから帰るよ!」
助けに行きたいが、割れた船の破片が行く手を阻み、近づくことができない。
「でも!」
それでもスイは帰ろうとせずに、誰かを探している様子だ。誰かと聞かなくても、あの若い男を探しているのだと解る。
急に辺りが暗闇に包まれる。完全に船の明かりが消えたのだ。もうどうしようもない。光った雷が船の最期を照らす。
スイの目には、最後の最後、あの若い男が海へと落ちていくのが見えた。
これで一緒にいられると、嬉しそうに笑ったスイ、しかしすぐに人間は海の中では生きられないのだと、焦りの表情に変わり、落ちていった男の下まで泳いでいった。
アオもその後を慌てて追いかける。いくら落ちたといっても、水中にも船の破片が混じっている。この状況で行かせたくなかった。
「待って! 危ないから!」
「離して‼」
手を掴んだが、すぐに振り解かれてしまう。
深く潜ったり、波の間に浮かんだり、迷いなく男の下へ泳いでいくスイの速さに、慎重に進むアオは追いつけない。日も落ちて、明かりの無い海の中で、遂にアオはスイを見失ってしまった。
せめて、スイがどこへ行くのかだけは確認しなければならない。他の乗員は助からないが仕方がない。唇を嚙みながら、ここは翠の感情が作った世界だ、感情を解放すれば無くなってしまうんだと言い聞かせ、深く潜り、スイがどこへ行ったのかと探し始める。
ようやくアオがスイを見つけた時は既に夜が明け、太陽は昇っていた。スイはちょうど大きな岩の陰に身を潜めていた。陸地はすぐ近く、遠目に誰かが横たわっているのが見える。それよりも目立っているのは、教会に見える建物だ。今はその周りの庭に若い娘達がいた。
「スイ」
恐らくあの娘達から隠れているのだろう。アオは声を潜めて、バレないようにスイの下へ向かう。
あれだけ人がいれば、あの男も見つけてくれるだろう。
「アオ……」
不安げに揺れている瞳はどういった感情か。
「もういいでしょ? 早く帰ろうよ」
「でも、あの人が」
「……なんなの、もういいでしょ」
その感情を察したアオはまたもや不機嫌になる。
こうなれば無理矢理スイを連れていくしかない。
「離して!」
連れていこうとすると、スイは声を荒げて抵抗する。
「いいでしょ! あんなやつ放って!」
「アオには関係ないでしょ!」
互いに声を大にして引っ張り合う。しかしそうすると若い娘の誰かが気づいてやって来るかもしれない。
その懸念は当たり、一人の娘が、恐る恐るといった様子で浜辺にやって来た。すると、浜辺に横たわるあの男を見つけ、娘は慌てて教会に戻り、人を呼んできた。
「ほら、もう人が来た。これで助かったでしょ」
「うん……」
こうなれば騒ぐことはできない。アオとスイは口を閉じる。
すぐに他の人を連れて娘は戻ってきた。それと同時に男は目を覚ます。
隣でスイの息を吞む音が聞こえたが、アオにとってはどうでもよかった。
「帰るよ」
「……うん」
今度はあっさりと頷いてくれた。スイの顔を見ると、今にも泣きだしそうな、暗い表情だった。
スイのこんな表情を見たくなかった。こうなった原因はあの男だ、いっそのこと、死んでしまえばよかったのに。そんな仄暗い感情を抱きながら、アオはスイを優しく抱きしめて城へと帰るのであった。