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第11話

 その日もいつも通り、夕食は碧と食べることができない。


 仕事上の付き合いのせいだ。それ自体はもう仕方ないと割り切っている。


 だけど、付き合いだとしても、他のだれかと食事をするのは気が進まない。碧が友達と食事に行くのすら嫌なのだ。自分は仕事の付き合いだからといって、楽しい食事ではないし、ビジネス的な話しかしなくても、外で誰かと食べてくるなんて、そんな自分が碧の行動を束縛できるだろうか。でも、碧と一緒にいるためには仕方が無い。


 そんな言い訳をして、今日もこれから夕食だ。


「こんばんは、翠さん」


 しかも、その相手は菫だった。


 碧にあんなこと言ったのに、それなのに、自分は菫と夕食だ。


 菫は、自分の地位を脅かす存在。そう思っていても、立場上会わない訳にはいかない。


「話って言うのは?」


 翠の氷柱のような目線にも気にした素振りの無い菫。


「今後のことですよ。同じ業種ですし、情報交換したいじゃないですか」


 翠を逃がすまいと、蛇のような目で見据える。


 全く油断ならない。


 ここでそれ以上答える気は無いらしく、大人しく菫について行くしかなさそうだ。


 個室になっている店内で翠と菫は向かい合う。


 なにを言ってくるのか、碧との話のおかげで、菫は自分の会社を大きくすることが目的だということは知っている。菫に実際聞いた訳ではないが、それは正しいだろう。


 翠は身構えていたが、拍子抜けな程大した話はしなかった。


 そして、料理の味が分かり始めるぐらいには翠が落ち着いてきた頃、遂に菫は言った。


「このお店、明日碧さんと来る予定なんです」


 まったく無防備な時に放たれた言葉だった。


「……え?」


 激昂することもできず、ただ無防備に受けてしまった言葉。


「今日碧さんから連絡がきたんです。二人で会えないか、と」


 心を守ることなんてできず、ただ茨に締め付けられるだけ。


「翠さんはご存じなかったのですか?」

「……どうして」

「それはわたくしが聞きたいですね。お二人はお付き合いしているのに。まる浮気ではないですか?」

「………………違う」


 先日話したではないか。それなのに……。


 違う、本当に違うのだろうか。黙って再び菫に会おうしているのだ。やはり碧は嘘をついていたのだろうか。


 身体が冷たい。寒くないのに、身体が震える。


「まあ違いますね。それに、翠さんのことで相談だと言っていましたし、会わなければ相談に乗らないと言ったのはわたくしです」


 それがなんだって言うのだ。それでも、碧は自分に黙っていたではないか。翠の目から熱いものが滲み出る。


「ですが、碧さんの本心は分かりません」


 まるで反応を楽しむような目を翠に向けるが、向けられている翠は気づかない。


 頭の中で嫌な考えが過る。


 碧は嘘をついている。本当のことを言わない。本心は見せてくれない。


 またこれだ。碧と話して、碧を信じようとしても、その度になにかがあって信じ切ることができない。


 だけど、もし理由があるのなら?


 分からない、それを聞いても納得ができるのか、だけど、話さなければならない。


 そんな翠を見る菫の目は、弱った獲物を見るような目だった。


「碧さんがここの料理に満足してくれればいいのですが……」


 深く傷ついた獲物を更に痛めつけるように、今この場でする必要のない話をする。


 その言葉全てを、翠の頭が勝手に悪い方向へ変換する。


 これ以上は耐えられない。食事なんてどうでもいい、早く家に帰らなければ。そして、碧と話さなくてはならない。


 それしかできない。聞いたところで、それを信じられる確証は無い。


 浅い呼吸を繰り返しながら立ち上がった翠に菫が言う。


「どうされました? 体調がすぐれないのなら、うちの者に送らせますよ。ああ、碧さんに連絡しておきましょうか? 心配しているフリはしてくれるでしょうから」


 その最後の一言で、翠の心を締め付ける茨が更に強くなる。


「うるさい‼」


 このまま締め付け、ちぎれそうになりそうな心を寸前で守る。


 これ以上好き勝手言わせたくない。碧はそんな人ではない。そう強く思い込まなければ、心が耐えられない。


 翠は、身体を引きずるようにしてその場を後にする。



 叩かれた頬に手を当てながら、碧は己の過ちを悔やんでいる。


 言うべきだった、菫に会うことを。話していれば、こんなことにはならなかったと思う。翠のことを信じられなかった自分のミスだ。


 先日話したとき、翠がどれ程不安だったのかを聞いていたはずなのに。


「なにやってるんだろ……」


 そんな問いに答えてくれる相手はいない。ただ虚しく、一人しかいない部屋に反響するだけ。


 しかしこのままではなにも変わらない。この世界で、ずっと翠と添い遂げることはできない。


 今話しに行ったところで翠は聞いてくれないだろう。ただ、このままなにも言葉を交わさず明日を迎え、菫に会うということは絶対にしてはいけない。


 根拠は無いが、そうしてしまうと、もう取り返しがつかないことになるだろうと想像できる。


 だから翠に話をして、菫に会わなければならない、翠のためにも。


 碧は床を這うように、翠の部屋へと向かう。


 叩かれた衝撃が、体だけではなく心まできていたようだ。


 翠の部屋までたどり着くと、ドアは完全には閉まりきっておらず、中から翠のすすり泣く声が聞こえていた。


 開いているのなら入らない選択肢は無い。よろめきながら立ち上がった碧は、ゆっくりとドアを開けて身体を滑りこませる。


「翠……」


 部屋の真ん中で、床にへたり込んですすり泣く翠に声をかけて近づく。


 翠は気づいているだろうが反応は返さない。ただ泣いているだけだった。


 腰を下ろした碧は、そっと翠の背中に身体をくっつける。


 触れた瞬間、身体を震わせた翠であったが、すぐに碧を受け入れて背中を貸してくれた。


「ごめん……なさい……」


 声を詰まらせ振るわせる翠の言葉を黙って聞く。


 返事の代わりに、後ろから手を回して翠の身体を抱き締める。


「私……最っ低……」


 翠は悪くない、悪いのは自分だ。今それを言っても否定されてしまうし、更に翠を傷つけるだけ。


 本当に最低……大切な人を叩いて、こうして逃げて……」


 今碧にできることは、黙って言葉を聞き、それでも嫌いにならない、離れないと、こうして証明することだ。

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