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第6話

 自室のドアに背中を預けて、一人座り込む翠。


 ドアを隔てた先では、大切な人が泣いている。


 今すぐ抱きしめに行きたい。大丈夫だよ、と安心させたい。


「馬鹿じゃないの」


 誰が大切な人に涙を流させているのか。


 誰のせいだ。


「最っ低」


 冷静になると、自分の愚かさに気づく。


 なぜ碧は翠に誤魔化すようなことを言ったのか。なぜあの時、碧は安堵したのか。


 なぜ、大切な人を信じられなかったのか。


 今すぐにでも謝りたい。立ち上がって、ドアを開けて、碧を抱きしめる。


 たったそれだけで、大切な人の泣き声は聞かなくて済む。


 でも……動かない。


 だって――碧は噓をついているかもしれないから。


 だって――本当に自分のことを想ってくれているのなら、碧の方から来てくれるから。


「信じさせて……お願い……‼」


 そうやって碧のことを信じきれない翠でも、これだけは思っている。


 碧を菫から守る。


 碧のことを信じ切れず、あまつさえ傷つけてしまっても、碧は誰にも渡さない。


 碧の意思で、自分と一緒にいてくれるが一番いい。だけど、菫が碧を奪おうとするなら、碧が自らの意思で菫の下へ行こうとするのなら容赦なく止める。


「訳が分からないわ……!」


 碧と一緒にいたいと思っていても、碧を突き放すことをして、碧を傷つける。


 それで碧が自分の下を去ろうとするものなら絶対に止めるしなんだってする。


 自分自身の心に絡みつく茨を解いてもらおうとして、解けないのだったら絡みつける。


「捨てないで……」


 身勝手な涙が、頬を伝う。 


 ようやく身体を動かせるようになった碧は、ゆっくりとした動きで夕食を片付ける。


 もうなにも喉を通らない。


 もったいないから、余った料理はラップをかけて冷蔵庫へ。


 残りの食器は軽く洗って食洗機に入れる。


 食洗機のスイッチを押して、なにも無いテーブルを拭いて掃除する。


 翠の下向かう気分になれない。


 下手に動いて感情が無くなってしまうとすべてが終わる。それだけはなんとか阻止しなければならない。


 それと、ただ純粋に怖い。


 人に感情をぶつけることはあれど、ぶつけられることの無い碧にはどうすればいいのか分からない。


 謝るだけで終わればいいが、これはそんな単純なことではないはずだ。


 翠の喜を手に入れるため、翠の喜を解放するにはどうするべきなのか。


 そんなもの見当もつかない。今はただ、翠に嫌われないように気をつけて過ごすことしかできない。


 このまま、翠に愛想をつかされてしまうと、世界と共に碧自身も無くなってしまいそうだ。


 どうすればいいのか。


 原因は菫と会う約束をしてしまってからおかしくなった。


 菫の狙いは翠を蹴落とすことだ。もしかして菫はこうなることを見越していたのだろうか。


 波風が立たない方法は碧が菫と婚姻を結ぶだけではない。碧と翠の関係の消滅だ。


 碧に見合うために、碧と繋がりを持つために地位を確立した翠。その碧がいなくなってしまえば、翠が今の地位にいる理由が無くなってしまう。


 そうなれば翠を蹴落とすようなことをせずとも、勝手に会社は潰れてしまうだろう。


 それが狙いなら、菫の思い通りにはさせない。


 碧は翠の部屋へと足を動かす。


 声をかけるのが怖い、ノックしても無視されるかもしれない。それでも、翠のために覚悟を決める。


 ドアをノック。力を込めたはずなのに、情けない音が鳴る。


 返事は無い。聞いているか分からないが口を開く。


「ごめん翠。私、噓ついちゃったの。本当はね、私も今日、菫に会ったの」


 すると中から物音がしたが、ドアの開く気配は無い。


 一瞬固まった碧だが、すぐに続ける。


「スーパーに行った時、私が待ち合わせ場所にいなかったから探したんだって、そう言って現れたの。でも、私はあなたに会いたくなかったからって、そう言ったら菫は帰っていったんだよ。なにも無かったの。ごめんね、さっきは言わなくて」


 相変わらず物音はしない。聞いているのだろうが、翠はなにも言わない。


 今すぐこのドアを開けて入ろうか、そう思ったけど、怖くてそれはできなかった。


 ここで逃げるわけにはいかない、だからといって翠の隣に行く勇気は無い。


 行き場の無い碧はただその場で立つだけ。


 やがて――ゆっくりとドアが開く。


 中からは当然翠が出てくる。翠は先程までとは打って変わって、力なく俯いていた。


 ゆらりと、まるで幽鬼のように垂れた両腕を持ち上げて碧の頬へ添える。


 少しだけ温かい、少し温かいだけで冷たいのには変わらない手。


「本当?」


 碧を見下ろす翠の目は、涙に滲み光の無い目をしていた。抜け落ちてしまったなにかを碧で満たそうと視界一杯に碧を入れる。


「……本当だよ」


 優しく頬に触れる翠の手を包む。


「噓ついていない?」

「うん、本当だよ」

「私を捨てない?」

「え、捨てないよ……?」


 この流れでなぜ捨てないかと聞かれるのだろう。


 なにか嚙み合っていない気がするが――。


「本当に⁉」


 翠の大きな声に思考を止められる。


 翠の荒い息が碧にかかる。なにか焦っている様子だ。


「なにがあっても私を捨てない? なにがあっても私を嫌いにならない? なにがあっても――」

「待って! どうしたの⁉」


 翠の言葉を遮ってまで止める。


 なにかがおかしい。こんなの翠では無い、そうと思ってしまう程の豹変ぶり。


 荒い息を吐く翠を落ち着かせるようと、碧は翠を抱きしめる。安心させるためにはこうするしかない。碧が幼少の頃の記憶。親が碧を落ち着かせるためにこうしてくれたのだ。


 碧のこの行動が功を制したのか、翠の呼吸は落ち着いていき、翠の体重が碧に乗る。


「ちょっ、ちょっと……⁉」


 半ば崩れ落ちるようにその場に腰を下ろした。案の定翠は目を閉じて、碧に身をゆだねている。


 この世界でも元の世界でも、碧の知らない翠の一面を見た。あれだけ長い時間を共に過ごしても、知らない一面があったのだ。


 初めて見る、碧の知らない翠だが、どんな翠でも翠は翠に変わりない。だったら碧はそれを受け入れる。当たり前のことだ。



 嫌なことは消えない。


 それは茨となって心を縛る。


 長月翠は自らの茨に指を伸ばす。触れると刺してくる茨は触れなければ当然なにもしない。


 だけど茨が縛る心はどうなるのか。それは翠の心を常に刺し続ける。


 見ていないふりをしても、誰にも見せなくしても、痛む心は変わらない。


 どうすればいい? どうすればいいのだろうか?


 その答えは持っているけれど、それを言いたくない。


 言碧なら聞いてくれるだろう、訳も聞かずに、翠を愛して、ずっと隣でいてくれる。


 翠の心を縛る茨を解こうとさえしてくれるかもしれない。だけど、翠が言ってそう動いてくれても、それは碧の本心による行動なのだろうか?


 碧に抱かれ、その温かさを享受する。これは碧がしたくてしていることなのだろうか? 自分がそういう風に動いたからそうしてくれているだけではないのか?


 それを聞いたら碧はどう答えるのだろう。そして、その答えを聞いた自分は納得できるのか。


 どうすればいい?


 碧を誑かせたあの女。あの女のことが碧の頭に存在している。もし自分が嫌になったら、ただちに乗り換えられるように。


 人の心は分からない。全てをさらけ出さないと、その全てを受け入れて、愛してほしい。


 だけど全てをさらけ出した結果、碧が離れてしまったら? そして離れて、あの女の下へ行ってしまったら?


 そんなこと、到底許せるはずなかった。


 だったらどうするべきか、あの女がいなくなれば、翠は自分だけを見てくれるのかもしれない。


 邪魔なのはあの女だ。簡単なことだ、あの女を消して、碧の居場所は自分の下だと改めさせて、それで全てを受け入れてもらう。


 碧が自分のことを愛してくれているのなら当然受け入れてくれるだろう。


 この醜い感情も、自分があの女にしたことも全て、碧は受け入れてくれるはずだ。

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