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第4話

 実家で住んでいる頃は、出かけるにしても使用人が付いていたり、大きな車で送り迎えをしてくれていた。


 翠と住むようになっても、それは変わらなかったのだが、碧ももう大人だ。護身術だって習っていたし、もうそこまでしなくても大丈夫だと伝えた。


 実家からはなにかあれば助けると、心強い言葉を貰って、今はかなり自由にしている。


 だから買い物に行くのは碧一人だ。翠にはタクシーを使った方がいいんじゃないかと言われたが、碧はこうして歩くのが好きだった。


 買い物に行くのは当然スーパーだ。今までスーパーという場所へ行ったことが無かったのだが、翠はよく行っていたらしい。それも当然だ、碧と違って翠は普通の家庭だったから。


 それを聞いてからだ、碧がスーパーへ買い物に行くようになったのは。


 住んでいるタワーマンションから近くの広い公園を歩いて向かう。平日の昼間は静かで、穏やかな気持ちになれる。車で移動していたなら聞くことのできない自然の音。風に吹かれた木々が擦れる音、鳥の囀りと羽ばたく音、そして自分の足音。


 何年経ってもこの音が碧は好きだった。


 公園を出ると、それらの音は聞こえなくなり、代わりに車や自転車が動く音、室外機の回る音、足早に歩く人々の足音。


 少しだけ、寂しさに駆られながらスーパーを目指す。


 自分で食材を選んで買うなんて、なんて楽しいのだろう。初めてスーパーに来た時はそんなことを考えていたことを思い出す。


 なぜ急にこんなことを思い出したのだろう。それは、昨日の出来事のせいかもしれない。


 あの時みたいに冷たかった翠の手、初めて向けられた、凍るような視線。そして、始めて受けた棘のある感情。


 それは碧も悪かった。浮気まがいのことをしてしまったのだから。だけど、怒ったり泣いたりせずに冷たくなっていた。改めて考え、少し違和感を覚えた碧であったが、ああいう浮気まがいのことをしたのも初めてだったし、それに対する翠のリアクションに違和感を覚えるのはおかしな話かもしれない。


「ああ、そこにいるのは碧さんじゃありませんか」


 そうやって立ち止まっていた碧が、今しがたかけられた言葉に顔を跳ね上げる。


 透き通るような綺麗な声に反応したのではない、今一番聞きたくない相手の声だったからだ。


 鼓動が早くなるのを感じる。どうしてここへ? そんな言葉が頭に浮かぶが、声の主は碧の目の前にいた。


「奇遇ですね、わたくしもここはよく利用するんですよ」


 そう言った声の主――霜月菫しもつきすみれが薄い色をした髪の毛をふわりと揺らして碧の顔を覗き込む。


 穏やかな声音の割には目に鋭い光が灯っている。蛇に睨まれた蛙とはこのことか、身体を動かすことのできない碧だった。


「ここでは邪魔になりますよ、さあ、こちらへ」

「あっ――⁉」


 ごく自然な流れで腰に手を回してきた菫に動かされた。


 さっきまで碧が立っていたのはスーパーの入口付近だ。だからそんな場所で突っ立ていたら邪魔だという菫の言葉の意味は分かる。だからといって腰に手を回して碧を動かしていいということにはならないが。


 どこにでもあるスーパー、ただの街並みの中、しかし碧と菫の周りだけまるで舞踏会のような、異国情緒あふれる光景になっていた。


「離して……‼」


 汗をびっしょりと流しながら、碧は手で押して菫の腕から逃れる。


「あら、どうされたのです? 今日は素っ気ないではありませんか」


 心から寂しそうな顔をした菫が言う。


「どうしてここにいるの!」


 そんなことどうでもいいと、ようやく口にすることができた言葉を強く吐き出す碧。


 そんな今にも噛みつきそうな碧に、困惑した様子で言葉を返す菫。


「碧さんがわたくしの指定した場所へやって来なかったので、それで心配になって探していたのよ」


 その言い方から、碧のことを本気で心配していることが感じられる。碧も納得しそうになったが、ここで気を許してはいけない。


「そう。でも行かなかったってことは、私はあなたに会いたくないってことなの」


 ここで迷う素振りを見せると、菫は水のように心の隙間に入ってくる。この世界の碧が鈍かったのもあるが、菫のこういったことで会うという約束を取ってしまったのではないかとも思う。


 昨日翠に言ったことはあながち間違いではなかった。


「そうですか、それは悲しいですね。でも、わたくしは碧さんに会いたかったんですよ」

「だから私は会いたくないって言ってるでしょ!」


 そう言い返すと、菫は今にも泣きそうな顔をして笑う。


 なにも知らないと罪悪感で押しつぶされそうになる表情だが、碧はもう騙されない。


 毅然とした態度を取る。


「そうですか……残念です。碧さんはわたしに会いたくなかったのですね」


 何度言わせるのかと、もう一度言い返そうとするが、その前に菫が続きを言う。


「それなら今日は帰りますね。翠さんにもよろしくとお伝え下さい」


 身を翻したその瞬間、菫の目の端から光るものが零れた気がした。


 しかし碧はなにも言わず、ただ黙ってその小さくなる背中を見つめる。油断も隙も無い、まさかここで接触してくるとは。今日は翠と一緒に夕食を食べられるということに舞い上がっていたのだろうか、気を引き締めなければならないと思った日からこれだ。


 菫を警戒しなければならないと、改めて自分に言い聞かせる碧であった。

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