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第20話 この店使わないか

「女房が半年前に死んだ事は、話したよな。何てことないある日、急に倒れてな。くも膜下出血だそうで。俺はもう動揺しちまって、救急車もろくに呼べなくてそのまま……何ていうのかな。人って奴はコロッと逝っちまうんだなって怖くなって。あいつがいない事を、その日の何てことない時に思い知らされるんだ」

彼は、仕事の合間にそんな事をポツリポツリと話してくれた。

「和也。お前、救急車の番号。あれ、焦ると訳分からなくなるからよ。電話の真ん前書いときな。おじさんとの約束だ」

 そう、独り言のように話した新嶋さんは、きっと、奥さんを助けられなかった事を悔いていて、俺に同じ思いをして欲しくないんだろうなと、そう思った。




 二人で新嶋さんの店でお手伝いを始めて、三週間が経った。

その三週間で変わった事と言えば、俺、和也が新嶋さんの弟子になった事だ。短い間に関係性がずいぶん変わったと思うけれど、気が付いたらそう呼ばれていた。陽輝は包丁の扱いが危なっかしすぎて、弟子とは認めてもらえなかったようだ。(手を切りそうで切らない技は、もはや芸術だと思う) 

 そしてもう一つ。家から店まで電車で二十分かかる事を言ったら、二階の住居スペースの一部屋を貸してくれた。

「女房の部屋だったんだがよ。使わないと部屋じゃなくなっちまうからな。あんたら勝手に使いなよ」

 幸い、空き部屋はきれいに整頓されていて、すぐに使えそうだった。

「化粧台がある。三面鏡だ!」

「でも和也は化粧しないだろ。しなくてもかわいいし」

「もう何それーかっこいい!」

そう惚気ていると、新嶋さんは急に真剣な顔になった。

「あのさ。和也。おまえ、前にこの辺で飲食したいって言ってただろ?自分の店持ちたいって……あれ、まだ考えてるか?」

 確かに初めて会ったときにそう話をした。覚えていてくれたのか。

「はい。もちろん。俺、ドイツに留学してたでしょ? その時酪農家の家に置いてもらっていて。それで日本でチーズを使った料理の店をしたいと思っていて」

 ドイツと言っても、スイスに近い地域だったので、おいしいチーズを使った店が多かったのだ。俺は、その味に感銘を受け、日本に帰るならそれを使った店を開きたいと考えた、という訳である。

「と、言ってもコネも無いし、まだ場所とか細かい事何にも決まってないんです。でも小さい時に遊んでいたこの街が好きだから、出来たらここがいいなって……見切り発車すぎますかね」

 自分で話していて何だか心配になってきた。店を手伝いながら、この辺の事を知ろうと、調べてはみたものの、実際は賃貸も良い値段のものはないし、初期経費がどれくらいかかるのか、考えただけでも頭が痛くなる。やっぱり、気持ちだけでは起業出来ないなあと痛感する日々だ。

「……和也。陽輝もだ。おまえら、この店使わないか」

「え?」

使うってどういう事だろう。イマイチ理解出来ず、聞いてみる。

「どういうことですか?」

「つまり、この店継いでもいいし、リフォームしてもいいし、好きに使っていいって事だよ」

「ええ!」

急な話に俺がただ驚いていると、静観していた陽輝が口を開く。

「どうして急にそんな話を始めたんですか?」

「そりゃ。俺はもう若くないし、長く店をやる体力もない。かといって息子夫婦は都会にいるし……おまえらと会ったのも、何かの縁かと思ってな。いっそ、手放しても良いんじゃないかと思ったんだよ」

「そんな……俺突然の話でどうしたらいいか」

 まさか、彼がそんな事を提案してくるとは思わなかった。

「新嶋さん、本当に良いんですか? 俺にとっていい話過ぎて……」

「ああ……もちろん今日明日って訳にはいかないぞ? 俺の店を任せるからにはここで修行してもらう。おまえにとってもその方がいいだろ?」

 どうも、話がうまく進み過ぎている。陽輝に頬をつねって欲しいとお願いしてみたけれど「そんな酷い事出来ない」と断られてしまう。仕方がないから自分でつねった。痛かった。

そんな訳で、俺の起業計画は元ある店舗を使用した形で進むことに決定した。


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