話し合いも平行線をたどり、ついに俺も父さんもそっぽを向いて黙り込んでいた。もう無理だ。和也がトイレから帰ってきたら帰ろう。
(しかし遅いな……腹でも壊したのか? 心配だ)
まさか、先ほどのやり取りを気にして泣いているのだろうか。トイレの個室で泣いている様を想像したら、いてもたってもいられなくなってきた。無言で立ち上がると父さんが「どこへ行く」と声をかける。
「和也を探しに行くんですよ。遅すぎる。探し出して、もう帰ります。話にならない」
また、何か言われるかと思ったが、父さんは一言「そうか」と言ってそれきり黙った。何だよ。何か言えよ。何故だか腹が立った。
「他に、無いんですか?」
「いや、無い。お前がそう決めたのなら、もういいんだ」
まるで子供が不貞腐れているような態度だった。言いようのない違和感を感じながらもドアに向かおうとした時。
「た、助けて!」
ハッとする。和也の声だ。音が遠い。急いでドアを開け夢中で声のした方向に走った。
「貴方が『和也』さん?」
そう、目の前の女性は俺に聞いてきた。緩くウエーブした黒髪。陽輝と同じ髪色は、彼女が陽輝の血縁者であることを予想させた。
「は、はい。そうです」
「そう……」
陽輝のお母さんだ。やっと会えた。きちんと挨拶しなければ。
「あの! 改めてよろしくお願いします。月島和也といいます」
頭を下げて、できる限り丁寧な言葉を心がけた。けれど、そこで相手の様子がおかしいことに気が付く。女性はうつむき、震えているではないか。それに、ぼそぼそ何か言っている。
「そうなの……貴方が……陽輝を」
「あの、陽輝のお母さん……?」
具合でも悪いのかと心配になり、声をかけた時だった。
「貴方に! お母さんなんて呼ばれたくない!!」
キラリと光る金属。ストールに隠れて気が付かなかったそれを、彼女が持っているものをやっと認識した。小さい果物ナイフだ。え? 何でナイフなんか持ってるんだ。
「貴方のせいで、私の陽輝がおかしくなった……!! 貴方のせいで……!」
いまいち状況が理解できないが、何だか危なそうだ。俺は、彼女を落ち着かせる為に必死に声をかけた。
「あ、あの! 陽輝はどこもおかしくないと思います! 俺近くで見てましたけど、どこも……」
「うるさい!」とお母さんが一閃腕を振る。
騒ぎが聞こえたのか、お手伝いの田辺さんが顔を出し、「きゃあ」と悲鳴を上げた。
「お、奥様……!」
「うちの子が男の子を好きだなんて……そんな事ありえない……あんたが変なこと吹き込んだんでしょ! きっとそうだわ!」
「と、とにかく落ち着いてください! そんな危ないもの下ろして……」
じりじりと後退しながら、目に入った花瓶をとっさに掴み抱える。投げようと思ったのだが、水が入った陶器は意外と重くて足元がふらつく。
「おお……っとっと、うわ!」
ついに尻もちを付いて、勢いで仰向けに倒れた。花瓶の中の水が顔にばしゃっとかかり、視界がぼやける。それでも、彼女がこちらに向かってくるのを感覚で感じた。
「た、助けて!」
半分パニック状態になりながらも女性に手を上げるなんてダメだと思い、彼女の足元に花瓶を投げつけて威嚇する。ダメだ全然効かない。這って逃げる。恐怖で足がもつれてしまう。追いつかれ髪の毛を掴まれた。
(怖い……陽輝……!)
すると、バタバタと荒々しい足音が近づいてくる。
「何してるんだ母さん!!」
陽輝の声だ。お母さんが驚いた声を上げて俺と包丁から手を放す。
「は、陽輝! 違うのよ、全部こいつが……こいつが私を花瓶で殴ろうとしてきたから私、仕方なく抵抗して……」
彼女の声を無視して、陽輝は俺に「大丈夫か」と声をかけてくれる。
「和也、本当にそうなのか? 母さんを花瓶で襲ったのか?」
「えと……」
このまま正直に言えば、お母さんが悪者になってしまう。言いよどんでいると、お手伝いの田辺さんが顔を出して「あの!」と発言した。
「先に奥様が包丁で和也さんを……和也さんはそれから身を守ろうとしただけなんです」
「やっぱり……そんな事だと思った」
「田辺さん? 貴方、私を誰だと思って……!」
「母さん黙って!」
陽輝はため息を吐き少し考えこむ様子を見せる。その間に、騒ぎを聞きつけたお父さんが現れた。
「何事だ? 母さん、何をしてるんだ」
皆に非難の目を向けられ、彼女はついに泣き出してしまった。顔を両手で覆い、膝から崩れ落ちる。
「違うの! こいつが悪いの! こいつが、私の陽輝を……ねえ、分かってよ!」
「わからないよ。俺達はもう帰る。『親と思わない』なんて、高校生の時は、さすがに言い過ぎたかと思って、後で撤回したけれど、今回の事は許せない。
陽輝は俺を庇いながら、半ば強引に玄関に向かう。
「陽輝……」
「良いんだ。きっと、元々分かり合えない運命だったんだ」
怒りを孕んだ様子に、もう俺からは何も言えなかった。
「陽輝」
お父さんが、呼ぶ声に耳を貸すことは無く、俺達二人は、後味の悪い気持ちを抱えながらも、星空邸を後にした。