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第3話

「人違いじゃない? あの人はレイデザークからきたと言っていたのよ?」

「ほう、それはまたえらく遠い街だな。……ふむ。やはり人違いか。

 考えてみれば、見たのはもうずいぶんと昔に思えるしなぁ。だいぶ整った顔立ちをしておったから、おおかた興行のポスターか何かででも――ああそうかっ」


 独り言で納得しかけていた途中、腰を押し上げるようにして椅子から立ち上がったハンスはぽんと手を打ち突然声のトーンをはね上げた。驚きのあまり、手の中からこぼしそうになった調味料の瓶をお手玉してしまう。


「なぁに? いきなり大声を出して」

「思い出した、思い出した。似てたんだよ、

 クライザーのやつに」

「えっ?」


 思いもよらなかった名前がハンスの口から出たことに、どきりとする。


「ケーテは小さかったから知らんだろうが、昔、町の東っかわにでかい屋敷があってな。ほら、今は木材の倉庫がたっとるあそこだ」

「え、ええ……、わかるわ」


 特に気にかける必要のない、ただの談話であるように軽い相槌を打ちつつ背中を向けて、机上の箱に手を伸ばす。食材を分別しながら机に並べる方に気がいっているふりをしながら、わたしは彼の出す音にふくまれる彼の感情の切片の一切を聞き逃すまいと――声の調子から間のとり方にまで、集中した。

 幸いハンスはよみがえった自分の記憶の方に夢中でわたしから目をそらしていたので、わたしがクライザーの名に驚いたことには気付いていないらしい。


「あのクライザーの若造に似ておったんだ。名は……ええと、たしか、デニスといったか。これが実に鼻持ちならん成り金野郎でな。いきなりやってきたと思ったら金を山積みして、強引に買いとった土地と家を崩してあっという間に別荘を建ておった。

 なにかいざこざが起きるとすぐ金と力で解決しようとする輩で、わしはどうも最初から好かんかった。隣町との境には紡績工場なんぞ建ておって。田舎の者なら安い賃金でも重労働に励むだろうというのがミエミエだったわい。

 実際、うちの町の若い衆と隣町の若い衆の大半はあの工場に雇われておったしな。もちろん、わしは目もくれてやらんかったが」

「でも、そのおかげで町も潤ったんでしょう?」


 隣町との境に紡績工場があるのは知っていた。今は閉鎖されてさびれてしまっているが、六年くらい前まではほそぼそとやっていたというのを聞いたことがある。クライザーの名前はついていなかったのでわからなかったが……あれも、おそらく手放した資財のうちの一つなのだろう。


「まぁな」


 ハンスはおもしろくなさそうに鼻を鳴らし、そっぽを向いた。

 危険な前兆だ。へそを曲げかけてる。


「で、でも、そんなにそのクライザーさんというひとに似ていたの? あのひと」


 あわてて言ったわたしの言葉に、ハンスは気をとり直したように正面に返り、頷いた。


「よう似とる。髪の色は違うし、歳は断然さっきの男の方が若いが、目許や口元がそっくりだ。それこそ女の大半が好みそうな顔立ちでな。いや嘘じゃないぞ。クライザーの若造にも、当時のうちの町の女のほとんどが入れこんでおった」

「おばさんも?」

「あれはわしにぞっこんだったさ。クライザーなんぞが現れる前からな」

「ふふ。そうね。おばさんは今だってハンスに夢中だものね」


 誇らしげに胸を張ったハンスがちょっぴりかわいく見えて、ほころぶ口元で言ったわたしの言葉にハンスは照れ隠しのようにひげをなでまわした。


「だがあの若者、あそこまで似てるとなると、クライザーの息子かおいっ子かも知れんな。

 なんて名だ?」

「さあ、なんて名前だったかしら。聞いたけど、忘れちゃったわ。そこらへんにごろごろ転がってる、平凡な名前だったから」


 肩をすくめ、最後の食材をしまいこんで扉を閉めた。ちょっと無理っぽいけど、まさかその通り息子だと答えるわけにもいかない。

 ハンスはわたしを本当の孫のようにかわいがってくれている。わたしが一人でこの小屋に住み、占いをすることを内心快く思っていないことも知っていた。母のようにわたしも死んでしまうのではないかと不安なのだろう。まして、占う相手が母の死に関係があるかもしれないなど言えるはずがない。


 来年、彼は七十になる。もう歳だ。今元気にふるまえているからと、この先もずっとそうであるとは限らないし、よけいな気苦労をさせる気にはなれない。

 手についたほこりを払う仕草をしながら立ち上がり、「おわり」と告げる。


「そんなことより、よかったら屋根の修繕を手伝ってくれない? 天井に変な染みが広がってる場所があって、どうやら雨漏りしてるらしいの。晴れてるうちに直したくて……。よければ、だけど」

「雨が漏るのかね? そりゃ大変だ。すぐやろう」


 飛び起きるようにイスから離れて、さっそく外へ道具をとりに回ってくれる。わたしは、うまく話を変えられたことに内心ほっと胸をなでおろしながら、彼のあとに続いて外に出た。

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