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第1話

 今度こそ振り返ることなく道の真ん中を通り、地を踏みしめるような足取りでまっすぐ帰って行く青年の背をぼんやり見送っていると、ハンスが食糧などの入った箱をロバのジョシュアの背にのせてやってくるのが視界に入った。


 森を抜けたばかりでまだ遠くて顔は見えないが、少し背筋の丸まったところとか、昔、まだわたしが生まれる前にあった戦争で痛めたという膝のせいでひょこひょこと右足を跳ね上げるようにして歩く様は、ハンスに間違いない。

 青年とすれ違いざま、帽子を脱いで会釈をする。気付いた青年も会釈を返したのだが、ハンスは何を気にとめてか、その後もときおり青年の方を振り返り振り返り、テラスで出迎えるわたしの元までやってきた。


「おはよう、ハンス」

「ああ、おはよう、ケーテ」


 挨拶に答えながらもその視線はまだ青年の背に釘づけだ。森に入り、見えなくなったところでようやくハンスは目を放した。


「あの人がどうかして?」

「……いや、めずらしいことだと思ってな。こんな早くから、しかも男の客がくるとは」


 ぼそぼそと歯切れの悪い言葉が口元をおおった白髭の奥からしてくる。

 あまり口を動かさないでしゃべるうえ、髭という幕のせいで抑揚のない、なかなか聞きとりの難しい声なのだが、ゆっくりと一音一音噛みしめるように発音するので、慣れれば感情を読むのもそう難しくはない。

 ロバを手擦りにくくりつけ、戸口をくぐった直後、どん、と幾分乱暴に箱を床へ降ろしたハンスは、いつものように腰に手をあてて伸びをした。


「町の者じゃないな、あれは」


 ほとんどが白くてほんのりと薄い水色がついているだけの瞳をこちらへ向けて、探るように言ってくる。機嫌を損ねているようだ。まさかわたしが彼と一夜をともにしたとでも疑っているのだろうか。

 いくらなんでもまさかと思いつつも、わたしは眉を寄せてその脇に歩を進めた。


「だからよ。町の人ならみんな、わたしの占いは午後からだって知ってるもの。あの青年ぐらいよ、こんな時刻に訪ねてくるのは」


 食糧に限らず先週注文していた消耗品などが雑多に放りこまれた箱からまず食糧だけを選び出し、机の上に並べる。ラベルをたしかめているふりをしながら横目で窺ったハンスの表情は先よりましになったものの、今だ不審顔だ。そんなにわたしが見ず知らずの男と夜をすごすと思っているのかと思うとわたしの方まで不機嫌になってくる。そんなわたしの心機一転となったのは、完熟トマトの下から現れた、透明の容器に入ったアップフェルトルテのホールだった。


「あら、これってもしかしておばさんの手作りじゃない?」


 とがっていた口先が、我知らずほころぶ。わたしの大好物だ。それも町の店の物でなく、おばさんの手作りであることが条件になる。近所の子供たちに受けがいいとよく自慢するドーナツやらその他のお菓子は砂糖がききすぎていてわたしはどうもいただけないのだが、このりんごの甘みと歯ごたえを最大限に生かしたアップフェルだけは例外中の例外で、もうこれだけでおばさんのお菓子作りの腕は国一番だと思ってしまうほどだ。


「まだ温かいわ」


 声を弾ませて箱からとり出し、眺めているわたしに、ハンスもようやく嬉しそうに目を細めて頷いた。


「ああそうさ。昨日行けなかった詫びに持って行ってやれと、あれが朝一番に焼いたんだ」

「あら、お詫びなんていいのに。本当ならわたしの方こそ出向かないといけないのに、いつもいつもこうしてわざわざ運んできてもらっているのに比べたら、その程度のことなんてなんでもないわ」

「いやいや、これはわたしが好きでやっている事だからね。あの人いきれでごみごみとした町から離れてこの森の中を歩くのは、ちょっとした気分転換になるよ。足のためにもいい」


 少し疲れるがな、と苦笑をすると、ハンスは椅子を引き出して腰かけた。ごつごつと節くれ立った、しわしわの大きく太い指を組んで、その上にちょこんと顎をのせる姿はいつ見てもかわいらしい。


「そう言ってもらえるとわたしも嬉しいけれど……ああでも本当に今日は格別に嬉しいわ。さっそくいただこうかしら。実は朝がまだなの。ハンスも一切れどう?」


 ケーキ用ナイフをとり出して一応訊いてみたが、案の定、ハンスは首を竦めて遠慮を表した。


「あれの作った菓子は食えたものじゃない。他の食事の方はともかく、あれだけは人の食う物じゃないよ」


 いつもそう言って、いくらおいしいと勧めても絶対口に入れようとしないのだ。これだけは例外だからと言っても全然無駄。勧めすぎると眉までコイル巻きにしてそっぽを向いてしまう。

 なにもこの程度の事で気を曲げさせることもないだろう。息を吐き、湯が沸くのを待ってハーブティーの缶の封を切ると、ハンスの分と自分の分を入れて机に置く。食糧類は湯が沸き出す前にさっさと片して、湯気のたったティーカップとアップフェルが一切れのった皿を手に、彼の向かい側へと座った。

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