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第3話

 断定できないが、そう遠くない未来、イブから十日以内に、世にも恐ろしい災いが、あなたの身にふりかかる……?


 体中の血液が足の爪先に一気に集中し、冷え冷えとしためまいにかろうじて堪えながら、口の中で数度その言葉をくり返す。だが幸い、うつむいて自分の手元を見ていた青年は、わたしの変調に気付かなかったようだった。


「父は……、われわれの誰一人として今まで一度たりと目にしたことがないほど蒼白し、震える声でどうすればそれを避けることができるか尋ねましたが、彼女は誰にもどうすることもできないと首を振るだけでした」

「……本当に……、あの……、母は、そんなことを告げたのですか……?」


 おいそれとは信じ難い思いで訊いたわたしに、彼は面を上げ、迷うことなく頷いた。


「たしかです。あれから十年の歳月が過ぎて、他のことはおぼろげになっていたとしても、あのとき彼女が口にした一言一句を忘れることありません。おそらく永遠に忘れることはできないでしょう。


 あの夜以来、父は狂ったようにひたすらおびえ続けました。日一日と近付くイブの日、そして新年。


 昼の間は妄想におびやかされ、夜ともなれば悪夢が父を襲い、片時も平静ではいられないようでした。猜疑心もますます強まり、自分に近寄ろうとする者があればその者が誰であれ、自分を油断させて寝首を掻くつもりなのだと本気で信じていたのです。

 はては、他人に奪われてなるかと銀行の金庫に預けてあった貴金属や絵画・預金を全部今すぐ届けろなどと命じたり、ひとに奪われるくらいならといきなり棒で殴りつけ、館中の物を破壊して歩いたり……当然ながら、そんな父に企業経営は無理でした。


 完全に精神を病んでしまった、そんな父の命令に一体誰が従うというのでしょうか? まして、マリア=フォルストのあの占いは、あの夜のうちに手の打ちようがないほど知れ渡ってしまっていたのですから。


 父は、他の一切に耳を貸さない暴君でしたが、それでもクライザーという巨大な樹の土台を支えていました。そこがぐらつけばどうなるかはまだ十五だったわたしでも見当はつきます。母は連日の父の所業にただでさえ細かった神経をすっかり擦り減らして薬漬け、長男である兄さえまだ十七で、あの狡獪な父の後を継ぐことは不可能。とすればどうするべきか。政治手腕はともかく、個人的に父をきらう者は仕事仲間にも大勢いましたから、彼等が動き出すのはそう遅くありませんでした。


 働きすぎだからそんな妄想にとり憑かれるのだと言い、療養と称して父を切り捨て、あの占いは父一人にかかるものだから経営には問題ないとしたのです。弱肉強食の世界ですから、生き残ろうとする彼等の仕打ちも容赦ありませんでした。彼等も養う家族を持つ身、それに、倒産を出して何千という労働者を路頭に迷わせるわけにもいかないでしょうしね。


 その頃にはとうに親類縁者のことごとくから見捨てられていましたので、復帰の道は完全に閉ざされたと言っていいでしょう。慰めは、それがどういう意味を持つか父自身にはもはや理解できなかったことです。そして幸いにもわたしや兄名義の財産がありましたので、慎ましやかな生活を送る分には困ることはないだろうと慰められました。そしてわたしたちは少しでも父の気を静めようと、館を封鎖して都から離れ、この森から遠く離れ、レイデザークにある小さな別荘へと移り住みました」


 わたしは、膝の上で握りこんだ両手がぶるぶる震えているのを重く沈んだ胸の片隅で感じていた。

 母は魔女ではない。ひとを呪う力など持っていない。


 だがこれは、まさに呪いではないか。


 母の告げた一言で彼の家族は一族から見放され、仕事を失い、廃人となった父親とともに館を追われたのだ。そしてその苦しみは十年経た今も続き、彼等の未来を暗黒の闇で閉ざしている。


「あれから十年が経ちました。

 十年の歳月の中には当然ながら様々な出来事がありましたが、これととりたてて騒ぐほどの厄災もなく、新年の祝いを無事すごしてこれた父も、もう歳です。重なる心労からとうとう胸を患い、手足の方も弱り、車椅子生活となって二年、すっかり諦めてしまったのか昔に比べて大分おとなしくなったのですが、それでもイブが近付くのを恐れて毎夜のように悪夢にうなされては狂ったように喚きだします。


 マリア=フォルストの予言の日か、それとも病によってかはともかく、このままでは父は死ぬ瞬間までおびえ続けることでしょう。


 医者に、今の状態ではこの冬をのりきれるかもわからないと言われ、わたしは、もう一度占い直してもらうべきだと母たちに提案しました。それも、他の占い師では納得ができないと言われることを見越して、マリア=フォルストに」


 語る彼の言葉を、わたしはほとんど耳に入れていなかった。なぜ母はそんなことを告げたりしたのか、その疑問ばかりがぐるぐると渦を巻く。わたしが彼という存在を思い出したのは、突然肩を掴まれた、その痛みからだ。


「マリア=フォルストさん、おねがいします。父を占ってやってくださいませんか」

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