いやな予感は今こそその全容を表し、わたしの胸をちりちりとその赤い舌で焼いていた。
肩越しに見た青年は、まるで仮面を脱ぎ捨てたように、先までなど比較にもならない厳しい表情をして帽子を弄んでいる。
声は変わらず穏やかだが、それはゆとりからでも余裕からでもない。嵐の前兆のようなものだ。割れる直前の風船のようなもの。
「なにを、おっしゃって、らっしゃいますのか……」
文字通り喉から押し出して、やっと、それだけを返す。
「おや、わからないと言われる?」
おもしろい話でもするように声を弾ませ、口端をほんの少し吊り上げる。
ちらと下から盗み見るように、鳶色の瞳がわたしを向いた。
「ええ。何をおっしゃっていますのか、見当もつきませんわ……」
どうにか笑み返すという虚勢を張る力は、まだわたしの中にあった。だが次にもできるとは到底思えない。二つ目の失敗――振り返った瞬間から、こぼれ落ちる砂時計の砂のようにさらさらとわたしの中から彼に抵抗する力が失われてゆくのがはっきりと感じとれていた。
「では占ってみればいかがです? あなたは占い師だ。わたしが何を思ってここにいるかを知るなどたやすいことでしょう」
「おことわりします!」
青年の、それがどれほどわたしを――備えた能力でなく、わたしという人間を――侮辱していることになるか、彼ほどの者ならば気付かないはずはないのに、あえて口にしたということにかっと目の前が怒りで赤く染まる。反射的、叫び返したあとで我に返り、してやられたことに唇を噛んだがもう遅い。わたしの感情の発露に青年は上々とでも言いたげに息をつき、手擦りに背を凭せかけた。
「ではしかたがありません、わたしの口から申しましょう。どうやらはっきり言葉にしなくてはあなたはいつまでもそうしてのらりくらりと逃げ続けて、わたしの望みは退けられそうですから」
「なにを…一体……」
「なにをですって? わたしの家族を離散させ、そして今もって父が苦しんでいるのはすべてあなたの母・マリア=フォルストによって引き起こされたということですよ。
今から十年前のイブの日、マリア=フォルストのかけた呪いのせいで、わたしの家はめちゃくちゃになったということです!」
十年前のイブ!
声高に青年の言い放った言葉は、まるで雷となって天より飛来したように、一瞬で、わたしの心を二つに裂き走った。
今だかつて受けたことのない衝撃によろめき、手擦りに爪をくいこませることで倒れかけた体をどうにか支える。
この青年は何と言った?
………………母の呪い?
鉄槌で頭部を猛打された思いで目がくらむ。気の遠くなる思いで思考が停止しかけた頭を鞭打って、どうにか現実へと意識をつなぎとめた。
母が、クライザー家を、呪った……。
そんな馬鹿な!
母は占い師であって、呪術師ではない。悩み、苦しむ者の救いを求める心に応え、そのときもっとも適切である助言をするというこの仕事を誇りにしていた。その母が、よりによってひとを呪うなど……!
このうそつきめ!
真っ赤な怒りにかられてこみ上げた数々の否定の言葉は、しかし喉を通るころにはその勢いを失っていた。
「……そんなはず、ありませんわ……何かのお間違いでは…」
直視に堪え難い悪夢に陥ったときのように、誰に言うでもなし、呟く。
青年の存在すら排除したわたしの脳裏では、最後に見た母の姿が鮮明によみがえっていた。
まさに今わたしが立っているこのテラスで、寝間着姿であとを追った幼いわたしの肩をつかんで揺さぶり、この森を出て行けと言い放った母。
そしてそのまま雨の中へ戻っていった――あれは……あれはイブの夜ではなかったか?
顔が強張っているのが自分でもわかっていた。拳が白くなるほど手すりを握りしめ、倒れまいと両足に力をこめる。
青年は、彼の発言にわたしが、面が紙のように白くなるほどの衝撃を受けており、しかもそれが芝居などではなく正真正銘本物の反応であることに目を瞠るほど驚き、すっかりとまどっているようだった。
口の中で短い言葉――おそらくは悪態の類い――をうめくように発して、青年は一度視線を足元へ落とした。そして再び面を上げ、その鳶色の目がわたしへと戻ったとき。
そこには深い思いやりが浮かんでいた。
「いいえ、事実です。わたしはその呪いを解いていただくために病床の父を連れ、遠いこの地までやってきたのですから」
青年は息をつき、手擦りから離れてあらためてこちらへ正面を向けると、彼女を気遣ってとても言い辛そうなためらいを見せながらも言った。
「どうやらあなたは本当に何も知らなかったようですね。考えてみれば十年前、あなたは幼い少女だったでしょう。そしてその直後に母を亡くされた。そんなあなたに教えるようなことではないと、わたしが察するべきでした。
大変不躾けなことをいたしましたことをお詫びします。申し訳ありません。
けれどもう少しわたしの話を聞いていただければそれが事実であると、あなたも納得してくださると思いますが?」
中へ入れろ、そう言っているのだ。
そのことに全身が痛いほど警告を発している。
これこそが夢の啓示。彼が連れてきたのは間違いなく災いだ。中へ入れてはいけない。何も知る必要はないのだ。母はもう遠い昔に死んで、この世にはいない。今さら母の為した事を知ってなんになろう。どんな呪いであれ、呪術師の死後まで継続されることはないはずだ。たとえ彼の一家に本当に呪いがかかっていたとしても、それが母の仕業であるならとうに解けてしまっている。彼の非難は全く筋違いのもので、話を聞く必要などない。母が彼の家を崩壊させたかもしれないなど、そんな作り話、認めずともよい――――――
「どうぞ……」
わたしは、わたしの中で頭を切られた蛇のようにのたうち暴れる忠告の正統性を十二分に知りながら、あえて前を譲った。開いた戸口の前に、誘導の右手を広げる。
「これから先は立ち話ですることでもないでしょう。どうぞなかへお入りください」
災いを招き入れようとしている自分を、どこか別の地にいる他人のように感じながら…。