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第5話

 本当にいた!


 愕然とその背を見送りながら、総毛立った両腕を抱きこんでこみあがる衝撃に堪える。そうやって正常の状態に戻るのを待つ暇もあればこそ、大急ぎ、右の木立へと踏み入った。

 下生えやしげみがたっぷりと含んだ雨粒に濡れることを気にする余裕もなく、とにかく青年より先に小屋に戻らなければとの一心で小走りに樹の間を抜ける。


 母が占いをしている間、わたしはこの森を遊び場として育ったのだ。どこをどう進めばどれほどの時間でどこに出るか、とうに熟知していた。なにも人の手で敷かれた道ばかりが道ではないし、わたしは淑女であると気取った女でもさらさらない。

 この獣道なら大丈夫、あの道を行くよりもずっと早く小屋に戻ることができる、そうわかっていながらもわたしは速度を緩めることができず、露出した木の根に何度も蹉き、目測を誤っては足首や手にすり傷をつくった。


 けれどその痛みを受け入れる余裕も今はない。まるで、鋭利な鈎爪で心臓を鷲掴みにされ、揺さぶられているようだった。高熱を出したときのように体が熱く痺れ、手足の感覚がとても不確かなものに思える。息がつまり、喘いでいるというのに足だけはさながら別の生き物であるようにとまるということを知らず、前に向かって動き続けて。

 夢の青年の、あまりに唐突すぎる出現は、これまで感じたことのない激しい衝撃でわたしのすべてを混乱させていた。

 はあはあと渇いた喉をこするようにして息が飛び出し、冬だというのに汗が額や背を伝う。けれど足はとまらない。


 ああ。でもあの男は、本当に、本当に、夢の青年なのだろうか?


 あの男を見た瞬間に、なぜかわたしは彼を夢の青年であると確信していた。顔を知らないというのに、おかしなことだ。

 あの男は、やわらかそうな金灰色の髪をしていた。帽子の下もうかがえるくらい、きちんと櫛を通してあって、絹糸のように細い前髪を一糸たりと乱すことなく左へ流れるように波打たせた、しゃれた髪型からも彼の育ちの良さがうかがえた。


 あかるい鳶色の目、褐色の膚。大きな手と、よく通る声。

 弱さなどどこからも、髪の毛一筋分も見出せない。


 尊大と言ってもいいほど自信に満ちた表情で固まったその顔立ちは、わたしの知る限りではあるが、かなり上等の部類に入る。身なりもまた見るからに高級そうなものばかりでかためられていて。

 そうだ、服装はどうだろう?

 顔は見えなかったけれど、夢の青年はいつもスーツを着ていた。彼もスーツだ。ただし、わたしたちみたいな中産階級の市民は購入どころか手にすることすらためらうような、高価な品なのは一目見るだけでわかったが。

 その下に着ていたのは目が覚めるほど真っ白の、糊のよくきいたシャツ。つばのある中折れ帽子。袖元からは、ネクタイピンと揃いの赤い石をはめた銀のカフスが覗いていた。


 清潔で、こざっぱりとした風体だ。それがまた小気味よいほどあの男に似合っている。


 では夢の青年はどうであったか。

 いまだかつてこれほどまで思い出そうと努めたことはないというほど微に入り細にわたってあの夢の一部始終を思い起こし、照合しようとしてみたが、気が高ぶり、はやっているせいか、今度はようとして夢の青年の姿が思い出せなかった。

 あんなにくり返しくり返し、もううんざりするほど見ていて、今朝だって見たはずなのに。


 ああでももし彼が本当に夢の青年であったとしたなら、彼は一体何をわたしに持ちかけようというのか。思いもかけない幸運か、それとも到底堪えがたい不運か。

 どちらにせよ、わたしには苦痛でしかないというのに。


 良きものであれ、悪しきものであれ、己の手の届かない位置から干渉を受けた人間がどうなるか、わたしはよく知っている。そういった出来事に出会い、迷った者たちが思案の末にわたしのもとを訪れるのだから。

 彼等は皆そろって心の平安を見失い、より所となるべきものを失っておびえていた。どこにいても常に身の置き場のなさを感じ、自分で自分を把握しきれない――そんなのはごめんだ。


 わたしは現状に不満を持ってはいない。

 今のままで十分わたしは満ち足りている。

 ならば、彼は望まれざる客人だ。

 彼はわたしの人生に全く不必要なものを運び、わたしからやすらぎを奪おうとしている。


 彼。

 太陽の光をきらきらと弾いていた金灰色の髪。

 わたしを見つめた明るい鳶色の瞳。

 わたしに話しかけたやわらかな声。


 たとえ彼が夢の青年でなくとも、わたしには危険な存在だ。姿を見ただけだというのに、もうこんなにもわたしは平静さを欠き、分別をなくした子供のようにうろたえているではないか。立ちどまることで何かに捕われることを恐れ、夢中で足を動かしている。

 とにかく、あの男にはすみやかにこの森から立ち去ってもらわなくては。


 小屋を目にしたことでいくばくかの安堵を得られてか、裏手に出たところでようやく足がとまる。胸に手をあてて息を整えながら、わたしはそう結論した。


 そしてこの小屋へ続く道をたどり、青年が再び姿を現すまでの一時、急ぎ泥と夜露で汚れた衣服と靴を替え、年端のいかない少女のようにたらしたままだった髪を梳きまとめて結いあげると鏡に見入る。

 心の動揺がもしや面に出てはしないかと不安だったが、それは無用の心配であったようだ。帰路ずっと走り通したためまだ膚が幾分上気していたが、普段のわたしは病的な色だとハンスに心配されるほど青白い膚をしており、この程度であればおそらく人並みであるとのごまかしがきくだろう。ただ、決意と緊張に細くしまった青の瞳はさながら威嚇をする犬のような照りを放ち、きつく引き結んだ口元など、まるで宿敵に挑もうとするかのようだったけれど。


 そっと目を閉じて、心を静かにしようとつとめる。椅子の背凭れに身を預けたまま一切身動がず、外部に対して無防備なまでに意識を広げる。どこまでも遠く、はるか、限界という壁を知らないように。

 思考を排除する方法は既に心得ている。頭の中を無にしてそうしていると、それまで全く意識していなかった森の音――鳥の鳴き声や羽ばたき、風に散った雨露が地表に降りそそぐ音など――が、わたしよりもはるかに強く大きな存在感という波動でもって感じとれた。


 これは、森が生きているあかしだ。純粋な、それ以上でも以下でもない、ただそれだけのもの。他の何の介入も必要とせず、昔から変わらない姿でずっと長い時間を過ごしてきた……。


 今のように雑多な思いがまじりあい、自分を見失ってしまいそうになったとき、じっと耳を傾けてその波に身を任せているだけで、きまってわたしの心を静めてくれた。まるで彼等からの助力が体の中にしみ渡って新たな力となるようで、勇気づけられる思いがする。

 やがて、その中にまじって表の、しめった下生えを踏み鳴らして近付く足音がかすかにしていることに気付いて、目を開けた。


 彼だ。


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