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第4話

 ゆうに大人三人は並んで歩けるほどの道幅いっぱいに泥水がどっかり居座っている。しかも浸かれば確実に足首までくる深さだ。こんなものに前をふさがれては、さすがにここまではこれた女たちも尻ごみをして、引き返してしまうだろう。


 思ったとおりだと溜息をついたあと、おもむろに左の木立へ目を向ける。そこに落ちているいくつかの枝の中から適当な大きさのものを拾って、水溜りから右の傾斜へ向かって溝を掘りはじめた。そちらへ水を逃がしてやるという計画だ。


 ガリガリと音がするほど強く地面を削る。けれど枝の先で作った細い溝は、すぐ周囲の泥に崩され、あっという間にまた埋まってしまう。溝を太めに、そして深めにと根気よく何度も何度も重複して同じ場所を削り、少しずつ掘り進めていると。


「よろしければ、お手伝いいたしましょうか?」


 という言葉が突然頭の上から降ってきた。

 それは聞き覚えのない、まだ若い男の声だった。


 もう客がここまできていたのか。近寄る気配にもまるで気付かず、必死に木の枝で地面を引っ掻いているところなどを見られた失態を悔やみつつも、とにかく応えようと急ぎ身を正したわたしは、そこにある男の姿を見た瞬間言葉を失った。


 そこにいたのはまぎれもなく、あの夢に現れる青年――上品なスーツをまとい、つばのついた帽子をかぶった、金灰色の髪の青年だったからだ。

 まるで夢から抜け出してきたかのように、頭の髪先から靴のつま先まで、全てがそっくりそのままであることに、これは夢だったのかとつかの間混乱する。

 だが現実だった。握りしめた木の枝の硬い感触も、肌を温める太陽の光も、足下の水を含んだ土のにおいも、そして今目の前にいる青年も。


 彼が現実に存在していたことに畏怖し、無言で彼を凝視し続けるわたしに、


「どうかしましたか? それとも、わたしの顔に何かついていますか?」


 と青年は少しまごついてしまったように小首を傾げる。その鳶色の瞳と目があったことでわたしははっと我に返り、急いで謝罪と先の申し出に対する返答をした。


「いえ、なんでもありません。少し考え事をしていたものですから…。

 お申し出は大変ありがたいのですが、もう終わりましたわ」

「そうですか」


 青年は頷き、わたしから見て左の方へ移動すると、まだぬかるんでいる地面を上手に避け、片足の幅ほどしかないところを器用に歩いてこちら側へと渡りはじめた。

 その姿にじっと見入る。


 胸板が厚く体格もがっしりとしており、とても背が高い。ほどよく陽に焼けた、健康そうな褐色の膚をしている。歳の頃は二十五、六といったところか。違っていても、三十は越えていない。おそらく遠くの街からきたのだろう。その焼け方といい、身にまとった雰囲気からして周辺の町からやってくる若者たちとはかなり違っている。そして優雅な身のこなし、上等の衣服。まず間違いなく裕福な家で何不自由ない教育を受けた者だ。


 つつがなくぬかるみを渡り終えた青年は、先よりもわたしとの距離を詰め、真正面までやってくると、しっかりと張りのある声でこう訊いてきた。


「少々お尋ねしたいのですが、マリア=フォルストさんのお宅へは、この道でよろしいのでしょうか?」


 決定だ、と気の遠くなる思いでそっと奥歯を噛みしめる。


「ええ、間違ってはおりませんわ」

「そうですか」


 ほっと青年が安堵の息をもらす。


「それを聞いて安心しました。一応町の人に訊いてからきたのですが、いくら歩いてもそれらしい小屋は見えないし、道もこれでしょう? 誰ともすれ違わないので、もしやどこかで道を間違えたのかと危ぶんでいたところでした」

「一本道ですもの、間違えようがありませんわ。この道をあと半時ほど歩かれた先に小屋はあります」


 無理矢理喉をこじあけ、それと悟られることのないよう慎重に答えたわたしの言葉に、青年はにっこり笑って礼を言うと帽子のつばに指を添えて会釈し、わたしのきた道を進みはじめた。占い師・マリア=フォルストの住む小屋へ向けて。




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