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第3話

 わたしは母の言葉を守らなかった。


 この森へ住むようになって以来ずっと食糧や生活必需品などを運んでくれたりして、何かとわたしたちに尽くしてくれていた心優しいハンス・ブレーゲ老夫婦のもとへ引きとられ、以後七年の間町で暮らしたが、どうしてもその生活になじみきれず、結局この小屋へと舞い戻り、今もまだ人々の口にのぼる母の名声に寄生するようにこの森で占い師をしている。


 ただ、マリア=フォルストの一人娘といってもわたしは母ほど強い能力に恵まれなかったので、母のように招かれて遠くの街まで出向いたりはせず、この森の小屋と、せいぜいが町にあるハンスの家で、母の名を頼って訪ねてくる客を待つだけだったが。


 当然ではあるけれど、その者たちは一様にわたしから告げられた母の死に対し、隠しようのない失望を瞳中へと浮かべた。そして彼女の娘であるというわたしの存在に、またわずかの希望をつなげる。


 わたしはたしかに母から占いの手順を習ってはいたが、しょせん並でしかないわたしと非凡な母とではその才能は質からして比べものにならない。わたしは、占いというものに関して無知な彼等から受ける、蜘蛛の糸にもすがらんばかりの期待と、どうあがいてもそれには添いきれないであろうという自己嫌悪との狭間でもどかしさや後ろめたさを感じつつも占うという事をくり返し、そうしてまたたく間にこの三年が過ぎた。


 はじめのうちこそ母の占いによる救いを求めて訪れる客ばかりだったが、さすがに三年も経つと徐々にわたしの占いを目当てとする顧客も現れはじめ、この森に移った当初はハンスの好意に頼るところが大きかったこの生活もどうにか軌道にのり、自分の力で日々の糧ぐらいは確保できるところまできている。


 わたしは、母が何よりも深く愛し、また母との思い出が森のあちこちで濃くあざやかに残っているここを去ることはできる限り避けたかったし、それに、占うという事以上にわたしに適したものを見出せないので、この状況の好転に少なからず胸を撫でおろしたものだった。きっとこのままわたし一人がほそぼそと生きる分には不都合あるまいと。


 そうして日常にゆとりというものが生まれ出した頃、あの夢がわたしを悩ませるようになったのだ。


 鈴の音とも小鳥のさえずりとも思える音の満ちあふれたうす青の空間にたたずむ青年。輝きに邪魔をされ、はっきりと面は見えず、唯一見える唇はただ一言をくり返す。


    『気をつけなさい』


 その一言は否応なしにこの森の言い伝えを想起させ、いつも、目覚めたばかりのわたしを混乱させ、とても不安定な状態にした。


 ただ一度限りの夢ならば、こんなにも心を乱すことはなかったろう。もしくは、鳥の声であるかもしれないなどと思いついたりせず、単純に鈴の音であると思っていたはじめの数回のまま、終わっていれば。

 けれど夢は日を重ねるごとにその印象を深め、往々にしてただの夢でないことをわたしに知らしめた。半年を経て、今では三日に一度の割合でわたしの夜を訪れてはわたしを支配している。睡眠薬を飲んでも、母直伝の心をやすらかにするという香薬草の煎じ薬を飲んでも、その一切が無意味だった。いまいましくもあの夢はわたしの意志が遠く及ばない領域に存在し、深い眠りという隙をつくようにわたしのなかに忍び入る。あの一言をわたしに伝えんがために。


 これは言い伝えの通り精霊からの忠告であるのか、それとも単にわたし自身の占い師としての能力が、意識という邪魔な力から解放される眠りの中で近い未来わたしの身に起きるかもしれない何かを訴えているのか。

 そのどちらにせよ、わたしは目覚めるたびに、この執拗な夢へのうとましさに少なからず滅入らずにはいられなかった。


 わたしは今のこの生活に満足している。自分がどれほどの能力の持ち主であるか知りながら、高名な占い師になりたいなどというだいそれた望みを持つほどわたしは身のほど知らずではない。

 手の届かないものを欲しがり、ひたすら贅沢をしたいなどという欲さえ持たなければ、人は、静かで心穏やかな日々をおくれるものだ。そうして母の愛したこの森で、母の果たせなかった夢――言い伝えにある精霊のような占い師にいつかなれる日を夢見ながら、救いを求めてやってくる者たちに助言を与え、わずかばかりの報酬をいただく。

 その日、そのときの空腹を満たすだけのパンとスープがありさえすれば、それで十分。

 もっとも、今日ばかりはそういうわけにもいかなかったようだが……。

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