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 六月晦日みそか大祓おおはらえを迎え、一年の折り返し地点が来た。


 半年の罪障ざいしょうを祓い清める夏越なごしの祓である。

 人形ひとがた流しも行われるが、夏越ならではの特徴は茅の輪くぐりだろう。


 かつて神代かみよの時代のこと。荒ぶる神をその家に迎え、一夜の宿を貸した貧しくも心優しき民の話だ。

 手厚いもてなしに感激した神はその者に腰に下げた茅の輪を与えた。

 病が流行ったら茅でこのように輪を作り、腰に下げよ。病はそなたを避けるだろう。


 それが茅の輪の神話。

 今や茅の輪は腰に下げるどころではなく大きくなり、その輪をくぐることで無病息災を願う行事と相成った。


 今や虹霓国で欠かせぬ祭りのひとつである。


 それからさして間を置かず、七月七日は公式行事の織女祭おりひめのまつりと私的行事の乞巧奠きこうでんが行われる。巷でも良く知られる七夕の祭りだ。


 元は色々の糸をひとつずつ棚機たなばたに掛け、機織りの上達を祈願するものであったが、今では織物に限らず、管弦演奏から詩歌など、さまざまな技芸向上を願うものになっている。


 清涼殿の庭に机を四脚と灯台九本を立て灯を点し、机の上には琴や琵琶、笛を始めとした楽器を並べる。

 そして角盥つのだらいに水を張り、大空の星々を映し、天の織姫、彦星を祭った。


 索餅さくべいを齧りながら、榠樝かりんは天を仰ぐ。


 思い浮かべるのは、榠樝を織姫と呼び、自らを彦星と称した玄秋霜げんしゅうそうのこと。


 遠い昔のことのように思えるのに、あれから一年程しか経っていないのか。


 殺されかかったかと思えば脅迫されたり、求婚されたり。

 現在は同盟の為にお互い手の内の探り合い。


 ざくざくと索餅を噛み砕き、榠樝は吐息した。


「次は盂蘭盆会うらぼんえか」


 八日後の十五日だ。

 王族は年中行事を疎かにしてはならない。






 そんな折、月白凍星つきしろのいてぼしが隠居を申し出た。正式に虎杖いたどりへ当主の座を譲るという。


「つきましては月白家当主襲名を以て、女東宮の婿がねより身を引かせて頂きたくお願いに参じました」


 今までと打って変わって。凍星の隣で平伏する虎杖は風格すら漂わせている。


「許す」


 榠樝は頷き、摂政蘇芳深雪すおうのみゆきに視線を遣った。深雪が肯き言葉を続ける。


「ではかねてよりの取り決め通り、今後月白大納言凍星は五雲国のことを取り仕切るよう」

「承りました」


 凍星を従二位に昇進させ、五雲国への使節団の相談役に任じることは深雪とも相談済みだ。

 正式な任命はまだだが、長官かみに正三位真赭万由三まそほのまゆみ副官すけに従三位浅葱佐々介あさぎのささげが内定している。


「しかし、これが最後の機会と思って聞くが、凍星。本当に良いのか」


 榠樝が重々しく問う。


「この先の生涯、虹霓国の地を踏むことあたわぬ、とまではいかぬでも、中々帰って来るのは難儀だぞ。五雲国は遠い」


 凍星は目を細めて笑った。


「お忘れでございますか、女東宮。私の命は既に女東宮に捧げてございます。我が月白家の為に女東宮がご尽力くださいましたこと、この凍星、胸に深く刻んでおります」


 榠樝は少し視線を揺らした。


 凍星の助命をした一件、深雪ら他の重鎮には漏らしていない。

 敏腕の摂政のことだ。どこからか漏れ聞いているかもしれないが、それは内裏では口に出せぬこと。

 敢えて問えば藪蛇になる。榠樝は知らん顔を貫いた。


「引退し、悠々自適に過ごすことだって叶おうに」


 吐息交じりに言えば、凍星は晴れやかに笑った。


「意外と私は働き者なのですよ」

「父に負けず、私も女東宮の御為、力を尽くす所存にございます。どうぞ、ご存分にお使いくださいませ」


 虎杖はおそらく凍星のはかりごとの顛末を聞いたのだろう。

 以前とはまるで顔付きが変わった。

 その背に負うものはどれほど重たいことか。 

 親というものは、子に重い荷を背負わせていくものなのだなあと、他人事ならず榠樝は思った。


 だが、放り出す気は無い。

 榠樝も、おそらく虎杖も。


「虎杖、期待している。月白家当主として、励めよ」

「ははっ」




遣外館けんがいかんの方はどうなっている?」


 深雪は流れるように一切の停滞なく返答する。


「万事順調、とは参りませんが、予定通り進んでおります。どうやら五雲国側は王族に連なる者を大使として送り込みたい様子。文句のつけようもない住居、とはならぬでしょうが、心地良く過ごして貰わねば困ります。秋には相応のものをご覧にいれましょう」


 榠樝は小首を傾げる。

 意外な言葉を聞いた気がした。


「見に行って良いのか?」

「出来上がりましたらば、一度」

「楽しみにしている」


 榠樝の少し浮かれた声に、深雪は半眼になった。


「楽しみにして頂くより先に、婿がねの次第を整えねばなりますまいが……」

「考えてはいる」


 声の調子が重くなる。

 榠樝はすっと表情を消した。


「どうするのが一番良い状態なのか、まだ掴み切れていないのだ」


 扇をもてあそび、睫毛を伏せる。

 人形のような顔の中、眼だけが燃えるようで。それが深雪を捉えた。


「今の状態が続けば良いが、天秤は簡単に引っ繰り返る。おもりを量りかねてはならない。いっそ安定しないならば、揺らし続ける方が得策か?」


 深雪は珍しく言葉に詰まった。


「……なんとも、危うい状況ですな」

「本当にな」


 溜め息を吐き、榠樝は元の少女の表情に戻った。


「お告げとか無いものかな。どうするのが一番良いのか、龍神さまに示しては貰えないのだろうか」

卜占ぼくせんでは足りませぬか」


「足りぬなあ。答は訊くまでもなくわかっているのだ。現状が一番良い。もとい、全然良くないがこれ以上悪くなっては困る。今が最低で最上だ。どう転んでも悪くなる。だが、どう引っ張ればいい。方法がわからぬ」


 榠樝は猫のように唸る。


「私はこう、なんというか歴史に残る悪女になりたい気分だ!」


 深雪が思わず苦笑した。


「両国の男どもを手玉に取り、どうぞ虹霓国の平穏をお守りください」


 この少女なら、成るかもしれない。


 何となく深雪は未来が垣間見えた気がした。

 稀代の悪女か、はたまた屈指の名君か。


 どちらにしても、榠樝は歴史にその名を遺すだろう。


 既に前例無き女東宮として驀進ばくしん中であり、更に今の虹霓国はかつてない危機に瀕している。


 後の歴史学者がこの時代をどう見るのか。

 それとも歴史に残らぬくらい踏みにじられ、虹霓国の名さえ消えるのか。


 一寸先は闇の中。


「他人事では無いぞ摂政。そなたにも存分に力添えを頼む。というか無いのか、人たらしの手管とかそういうの」


 けれども。


「……ありませんなあ。前王陛下がそれはもうお得意でいらしたのですが。ありとあらゆるものをたぶらかしておいででした。物の怪とか神獣とか、そういった類のものも」


 榠樝は成し遂げるかもしれない。


「生憎と、私はそれを継いでは居らなんだようだ」


 半ば投げ遣りに、榠樝は扇を振り下ろした。


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