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 虹霓国こうげいこく王都、天雀てんじゃくから南の大宰府だざいふまで片道十四日。

 少し急いで十二日。


 そこから船にて十日ほどで五雲国に至る。

 五雲国ごうんこくの港から首都である康安こうあんまでは幾日掛かるのだろう。


「それこそ神のご加護でひょいと行って帰って来られれば良いのにな」


 昔話にそのような神器の存在を聞いた記憶がある。


 確かその名をばくの糸。

 創世神話に出て来る神器のひとつだったはずだ。

 糸によって別々の空間同士を繋ぎ合わせ、距離も時間も無いものとする神器。


 溜息を吐いた榠樝かりんに、堅香子かたかごがそっと菓子を差し出す。


「ご心配には及びませんわ。あの紫雲英げんげどのですから」

「そう。あの紫雲英どのですもの」


 山桜桃ゆすらもそう言って微笑む。


「これが茅花つばなどのでしたら、それはもういろんな意味で心配は尽きませんが」

花時はなどきどのでもそうですわよ」


 それぞれの従兄弟のことをこき下ろし、笑って見せる二人。

 榠樝は苦笑を返して菓子を齧った。


「榠樝さまの想いが、きっと紫雲英どのをお守りくださいます」

「ええ。ご心配なさいますな。きっと意気揚々と帰っておいでですから」






 五雲国の使節団が虹霓国の使節団を伴い、南の大宰府を出た。

 そして船にて五日、五雲国最大の港である安然あんねんに到着。


 本来の半分ほど早く船旅は終わった。

 波は穏やかで荒れることなく、だが帆風は揺ぎ無く、海面を滑るように船を運ぶ。

 鯨が現れ、まるで船を守るように傍らを泳いだ。


 奇跡のような道程であると湊若月そうじゃくげつは何度も繰り返し述べた。

 来た時とは雲泥の差であるらしい。


 このように静かな船旅は初めてだと、五雲国の者たちは口々に言い募って。

 船旅が初めての月白凍星つきしろのいてぼしらは、そういうものか、としか思わないのだけれど。


「虹霓国の神の守りはこれ程までに凄まじいのですな。我ら凡愚は恐れ入るばかりでございます」


 湊若月は何度となく繰り返し、その威力に恐れおののいて。

 己に与えられた護符を何度も掲げて拝んでみせる。

 首に下げた護符を見、紫雲英は目を細めた。


 光っている。


 神威、此処に在り、と言わんばかりだ。

 うんと念を込めた、と榠樝も言っていたが。

 凍星が嘆息する。


「どうやら私たちは思った以上に強い加護を与えられているらしいな」

「月白大納言さま」


 凍星は紫雲英に視線を遣り、少し笑う。


「そなたのそれは、特に女東宮が手ずから力を込めたと聞く。袋の上からでも光っているのが見えるようだ」

「は、畏れ多いことにございます」


「五雲国に我が国の力を見せ付ける、と女東宮は仰せだったが、効き目は思ったよりもありそうだな。湊どのが泡を吹きそうだ」


 安然から康安へ向かう陸路でも、お伽話でしか見聞きしないような神獣たちがちらほら姿を見せているという。

 しかも人に害をなすものたちは決して現れず、瑞獣ばかりだそうだ。


 車を引く馬たちも畏れ入って頭を下げる。

 何でも麒麟きりんらしき存在が近くに様子を窺って居るらしい。


 普段この辺りは旅人を襲う盗賊や獣が絶えず、ある程度の人数で集まって旅をするか、護衛を雇うのが一般的だという。

 だがそのようなすさんだ空気はちらとも見えない。

 康安へ向かう旅人たちも、皆不思議そうに辺りを見回している。


 千年に一度、あるかないかの稀有な事象だそうだ。

 桃源郷に迷い込んだかのようだと言い、湊若月は若干、あからさまでない程度に気を付けつつ、虹霓国の者たちから距離を置いている。


「虹霓国に居る時よりも、神威に触れている気が致しますが」


 空を飛ぶ鳥はもしや霊鳥ではないだろうか。鳳凰の眷属かもしれない。らんだろうか。

 きらきらと陽光を反射して羽ばたいている。


「恐らくは気の所為でもあるまいよ。神域に踏み入らねば見られぬような神々の片鱗すら感じられるようだ。五雲国から神威は去って久しいと聞いていたが、実のところそうではなく、人がにぶくなって感じ取れなくなっただけのことではあるまいか」


 紫雲英は少し首を傾げた。


「月白大納言さまは、そういった力をお持ちでいらっしゃいましたか」

「いや、殆どない。気配を感じられる程度だ。だがそれでも、そなたの護符には肌がひりつく」


 凍星は少し揶揄うように目を細めた。


「婿がねの内で紫雲英どのが、女東宮のお心の一番近くに居られるのだな」

「恐れ入ります」


 紫雲英はきれいに一礼した。


 凍星は片眉を上げる。思っていた反応とだいぶ違う。

 普通はもっと照れたり、焦ったりなどしないものだろうか。


 榠樝は紫雲英のそういう所が気に入ったのだろうか。

 凍星はまじまじと紫雲英を見詰めた。


「何かございましたか?」

「いや。随分と自負心が強いのだなと思っただけだ。女東宮の一の人たるは己だと」


 紫雲英は真っ直ぐに凍星を見、頷いた。


「そう在りたいと、そうで在るべしと、常に思っております。女東宮のご信頼に恥じること無きように、と」


 凍星は目を細める。

(これは、)

 恋ではない。けれどそれ以上に強い想い。


 若者めいて浮ついた恋心を突いてやろうかと思ったが、どうやら紫雲英は他の婿がねたちとは少し違うらしい。






「ふぇっくしょん!」


 盛大なくしゃみに山桜桃が眉を顰めた。


「紅雨どの」


 咎める声に紅雨は口元を押さえ頭を下げる。


「大変に失礼を致しました」

休息万命くそくまんみょう。風病か?身体をいたわるようにな」


 休息万命とはくしゃみの後に唱える呪文のひとつだ。

 くしゃみは悪霊などの仕業と考えられている。

 くしゃみで魂が抜けた身体に悪霊などが入り込み健康を害する。

 また、くしゃみで悪疫が広まるとも信じられ、恐れられてきた。


 そこで早死にを防ぐための呪文として、休息万命が唱えられるのである。


「勿体なきお言葉、恐れ入ります」


 榠樝の言葉に身を震わせる紅雨に、堅香子が意地悪く言う。


「どこぞの姫君が噂しておられるのではないですか?」


 ぎょっとする紅雨に、榠樝が面白そうに笑った。


「そういう話があるのか」


 くしゃみをするのは噂されている証拠という説は、虹霓国にもある。

 また、一そしり二に笑い三は惚れて四は風病ふうびょうということわざも。


「いいえ!何もございません!堅香子どの、根も葉もないことを口にしないでもらいたい!」

「あら、先日従兄妹いとこ姫となにやら睦まじく物語りをなさっていたとか」


 紅雨の顔色が赤くなり青くなり白くなった。


「あ、あれは別にそういうものではございません!妹のようなものでございますし、私の立場を理解し、応援してくれております!物語りもどこぞの市で求めたものが面白いとかで、読み聞かせておりましただけで……!」


 必死な紅雨に榠樝が笑いを堪える。


「よいよい。落ち着け。そのように慌てずともよいぞ、紅雨。堅香子もあまり紅雨を苛めてやるでない」

「失礼致しました」


 堅香子は小さく笑って引き下がる。単なる憂さ晴らしだったらしい。

 紅雨が憎々し気な眼差しを送るも、涼しい顔で受け流している。


「結局、紫雲英が居なくとも紅雨は揶揄われる役回りなのだな」


 榠樝の何気ない言葉が深く紅雨を傷付けた。


「女東宮……」


 情けなく顔を歪ませる紅雨に榠樝が苦笑して詫びた。


「すまぬ。悪気はない……が無ければよいという訳でも無いな。許せ」


 ころころと堅香子と山桜桃が笑い、紅雨は深く溜息を吐く。


「あれはそろそろ五雲国の港についた頃でしょうか」


 山桜桃が面白そうに水を向ける。


「憎い恋敵でも、やはり心配ですのね」


 紅雨はむ、と唇を曲げた。


「あれがしくじれば女東宮の御名にきずがつくからだ」

「まあ、そういうことにしておきましょう」


 くつくつと笑う山桜桃を見、榠樝はそっと目を細める。


 そういう山桜桃も紫雲英が心配なのだろう、とは言わずに置いた。

 人目を憚るように西に向かって祈っているのは、きっと秘密にしておきたいだろうから。


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