「榠樝さま!せめて袿を」
「今から公卿らに書簡を認める。動きの邪魔だ。書いた順に届けてほしい」
けれども二人共榠樝の望むままに硯と紙とを用意し、畏まる。
「頼むぞ」
まずは
榠樝は腕を捲ると猛然と筆を運び始めた。
凍星は五雲国の王が夢を渡ることを知っている。ならばその説明は省ける。
現在五雲国の王が何を望み、榠樝を差し出せと言って来たのかを書き連ね、その上で榠樝が彼の王と何を話したのかを記した。
五雲国が世界を掌握し、かつての
虹霓国を敵に回しても益は無い。
戦が五雲国に不利益をもたらすことを証明することなどを書き付けた。
龍神の加護があることは五雲国の王もその目で見ている。
その上での、この手を取らねば、虹霓国の龍神は五雲国に加護を与えはしない。
虹霓国を蹂躙するなら、龍神は神威を以て五雲国を排除する、という文言は重い脅しとなるのではないか。
というようなことを書いて、正式な立て文として封をする。
「月白凍星に届けて」
堅香子が恭しく受け取り退出する。
「次!」
榠樝は次々と六家当主のみならず、公卿たちに宛てての書簡を書き続け、終わった頃には日は暮れていた。
正直腕は重いし頭は痛いし、このまま休みたい。
だが大仕事が残っている。
「山桜桃、摂政は内裏にまだいるだろうか」
「いらっしゃいます」
やはり、と榠樝は立ち上がる。ぐるりと腕を回し、凝り固まった首を回す。
「清涼殿へ」
宣言した榠樝に翡翠のかさねを着せ、山桜桃と戻って来た堅香子が深く頭を垂れる。
「いってらっしゃいませ」
摂政、
「待たせただろうか」
「おいでになられると思っておりました」
「そうか」
ゆっくりと頭を上げる深雪を凝と見詰め、榠樝は肚に力を込めた。
「摂政。私は
深雪は少し目を細めた。
「少しばかり思っております」
やっぱり。
榠樝は軽く肩を竦めた。そうだろうと思った。
「理詰めで行かねばそなたを納得させるのは無理だと思って、ここへ来た。聞いてくれるか」
「お聞きしましょう」
榠樝は深呼吸し、口を開いた。
「いろいろ、考えた。同盟を結ぶにあたって、
深雪は静かに先を促す。
「具体的には?」
「
「それだけでは、弱いですな」
「神威だけではなく、現実の戦力を補充したことを伝える。陸に征討軍を置き、
「成程。ですが、五雲国が滅ぼした光環国の力をあからさまに誇示するのは、却って彼の国の不興を買うのではないでしょうか」
榠樝は言葉に詰まった。
「あからさまに光環国の名を出さず、海防にも新たに力を入れたとする方が良いでしょう」
「成程。肝に銘じよう」
「次はどうなさいます」
「抑止力の点は以上だ。そして、我が国と同盟を組んだ場合の利点を五雲国に示したい」
ここが大事な所。益を示さなければ受け入れられはしない。
「女東宮はどうお考えでいらっしゃいますか」
「具体的には明日、皆の意見を聞いてから纏めたいと思っている。取り敢えずの私の意見としては、経済的な面と文化的な面での利益を示したい。彼の国が我が国から積極的に得たいのは金、銀や硫黄の類と聞いた。そしてわが国固有の文化……と言っても私は虹霓国しか知らぬ故、どのようなものが求められているのかがわからぬのだ。故に皆の意見を求めたい」
深雪が少し感心したように目を細める。
「積極的に貿易を開こうと提案する。五雲国からは渡来物として人気が高い香料や陶磁器、書籍や絹織物などを買い付ける。支払いは向こうの欲しがる金銀でどうだろう」
「なるほど。ですが貴重な金銀が海外に流出し続けるのは少々考えものではありますな。鉱物とて永続的に産出できるわけではない。いずれ枯渇します。他の手をも考える必要がありましょう」
「そうか。その辺りはもっと詰めねばならんな」
榠樝は思わずのように懐を探った。
いつものように草子に書き付けておこうとしたのだ。
だが今は筆も紙も置いてきてしまった。
「どうぞ。お使いください」
深雪が紙と筆、携帯用の墨入れまでを差し出し、榠樝は目を瞬く。
「そなた、そういうものをも持ち歩いていたのか。流石だな」
ふっと深雪が唇の端を引き上げる。
「女東宮の真似を致したまで。いつも備忘録を付けていらっしゃるでしょう」
「見ていたのか」
みっともないと思われただろうか。
「見習わなければと、思いました」
思わぬ言葉に榠樝は目を瞬く。
「忘れずに覚えておくのは当然のこと。しかし人間なのですから忘れてしまうこともありましょう。書き付けがあれば見直せます。良い御心掛けと存じます」
滅多に無いことに褒められて、榠樝はぱっと顔を輝かせた。
「ですがもっと目立たぬように。あまり恰好が良いとは申せません。威厳に関わります」
「う、うむ。心に留めておく」
「武力に関しての抑止力、経済に関しての双方の利益については伺いました。そのほかには何を?」
「表向きは戦う意思を見せず、だが交渉を引き延ばし、時間稼ぎをしつつ、こちらの防備を整える。最悪の場合に備えて置かねばならぬ」
「戦をなさると」
「せぬつもりだ。したくない。だが蹂躙させるつもりは毛頭無い。火の粉が及んだら最小限の被害で済ませる。或いは……」
榠樝は長く息を吐く。
「その前に私が五雲国に行くことも、考えている」
深雪が榠樝を見詰める。
静かな眼差しに、榠樝も凝と深雪を見詰め返した。
「自棄になっておられるわけではないのですな」
「自棄ではない。よく考えた。とても、とても考えた。私は戦をしたくない。虹霓国の民も、五雲国の民も、兵も無辜の民も、損ないたくない」
伝わるだろうか。
榠樝は深雪から目を逸らさず、心の内をさらけ出す。
「その為に何ができるか。何が最善かをずっと考えていた。私が五雲国に嫁げば、或いはそれを足掛かりに、なし崩し的に併合されるかもしれないことも考えた。その上での最終手段だ」
できるかどうかわからない。
「五雲国で。その王のもとで、龍神の力を爆発させられないかとも思っている。できるかどうかもわからないし、できたとしてもどうなるか。だが、馬鹿馬鹿しいが一手にはなる。向こうの朝廷の機能を幾らか削げればそれだけでも少しの時間は稼げよう」
「そこは自棄なのですな」
「それ以外最終手段が思い付かなんだ。だが、半分は冗談だが、向こうの朝廷で暴れることは想定している。五雲国王を説得し、共に五雲国を動かすのも手段のひとつとして考えてはいるのだ。実際に話してみて、そう思った。あらゆる手段を尽くせば、説得できるかもしれない」
榠樝は深雪を真っ向から見据え、居住まいを正した。
「そなたの力が必要だ。五雲国を説得する手段を共に考えてほしい。私だけでは足りぬ。どうか、頼む」
榠樝は頭を下げた。
「お止めください。高貴な方がそのようなことをしてはなりません」
顔を上げ、真剣な表情の深雪と目が合った。
子供として侮られていない。
対等な相手として見てくれている。
深雪は床に手を付き、そっと頭を垂れた。
「摂政、蘇芳深雪。女東宮の御為、力を尽くすことを今此処に誓いましょう」