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 清涼殿せいりょうでん殿上間てんじょうのま月白凍星つきしろのいてぼしが数日振りに殿上した。その姿はやつれ果てて見る影もない。

 皆がひそひそと囁き合う。

 凍星は聞こえないふりをして凝と目を閉じていた。


 昼御座ひのおまし榠樝かりんが凍星を召した。

 平伏する凍星に榠樝は優しく声を掛ける。

「月白大納言、六花の様子はどうだ」

「畏れ多いことにございます。未だ熱は下がりませぬ」

「心配であろうな。天恵人参てんけいにんじんは足りているか?福徳延寿丸ふくとくえんじゅがんには欠かせぬのであろう。少しであれば余剰があるというから、当座必要な分を授けよう。典薬頭てんやくのかみには話を通してある。私の薬湯の分だから、特に他には負担を掛けぬ故、遠慮はするな。国庫の分に手を付けたわけでは無いからな。月白だけの贔屓にも当たらぬ。心配無いぞ」

 びくりと震えたかと思うと、凍星は涙を零し平伏した。

「勿体なき、お言葉を賜り……」

 榠樝が慌てた。御簾から転がり出て来そうな様子だった。

「泣くな泣くな。家族は大切にせねば。幼子なら猶更だ。早く持って行ってやるといい。回復を祈って居るぞ」

 このように心優しい少女に、自分は何を言おうとしたのだろう。

 凍星は酷く自分を恥じた。

 ほんの少し前まで、心など凍らせたつもりでいたのに。

 感情など無いものとして、榠樝に五雲国へ嫁すよう話を持って行くつもりだったのに。




 天恵人参を大事に抱え、凍星は邸へと戻った。

 あらましを伝え天恵人参を渡すと、棕晨星は即座に薬を煎じ始めた。

「暫くはこれで安心でございます」

 福徳延寿丸のおかげで六花の呼吸も落ち着き、やがて熱も下がるだろうことが見て取れる。

 棕晨星はほっと丸く息を吐いた。


「女東宮の説得は、できぬ」

 凍星は酷く消耗した表情で棕晨星を見た。

 棕晨星も静かに凍星の視線を受ける。

「徳の高い方でございますね。下の者に大切な薬種を、しかも自分の分を分け与えるなど……」

 凍星は頷いた。

「あの方は、前王と同じだ。己の身を削っても、他者を助けようとなさる。私はもう、これ以上あの方を裏切れぬ」

 凍星を見、己の手を見、棕晨星は深く長く、息を吐く。

「そろそろ観念のし時かもしれませぬな」

 凍星は驚きはしたがどこか納得もしていた。棕晨星ならばそうするだろうと、心のどこかで思っていた。いや、願っていたのかもしれない。


 その夜から、月白凍星は書をしたため始める。

 それは何日も続き、とても長いものになった。




 薬湯の種類を変え、榠樝は今日もまた眉を顰めてそれを飲み干す。

杜鵑花さつき、苦いのは天恵人参だと言ったじゃない。まだ苦いわ。寧ろ前より苦いわ」

 涙目の榠樝に杜鵑花が苦笑して頭を下げた。

「申し訳ございません。薬種としては甘いものに入るのですが、女東宮がお感じになる味は苦いかもしれませんね」

「なにそれ。酷い」

「やはり蜂蜜か甘葛煎あまづらせんかご用意致しましょうか」

 不満そうに首を振る榠樝に、堅香子が苦笑する。

「意地をお張りになると、後でお辛い思いをしても知りませんよ」

「だって私は童ではないもの」

「はいはい。そうでございますね。榠樝さまは甘いものが好きなだけでございました」

 む、と榠樝は唇を尖らせる。

「ところで杜鵑花、六花の薬なんだけど、天恵人参も無限にあるわけじゃないし、何か他の、ほら、この前話した霊芝延命湯れいしえんめいとう。あれどうなの?」

 杜鵑花は少し首を傾げた。

「月白の若君の体質によりますので、私は何とも。ただ、もしも代替品として効果があるなら、棕先生が当に気付いておられるとおもうのです」

「それもそうか。でも意外と抜けてることってあるじゃない。大事なことに一点集中しすぎて、当たり前のことを忘れちゃうような」

「何か忘れていらっしゃいました?」

 堅香子の台詞に榠樝は思い出さなくてもいいことを思い出し、頬を染めた。

「……思い出した。うん。もう少し、忘れておくことにする」

「なんですのそれ」

 堅香子と杜鵑花の軽やかな笑い声に少しだけほっとして、榠樝は一つ伸びをする。

「じゃあ、寝るとするわ。おやすみなさい」

「おやすみなさいませ」

「おやすみなさいませ」




 次の日。霊芝延命湯に必要な薬種を手に、杜鵑花は月白邸を訪れた。

「という訳で、福徳延寿丸の代わりに霊芝延命湯を処方しては如何でしょうか。天恵人参の代わりに黄精を使用すれば、可能かと思うのです。棕先生ならもう思い付いておられるかもしれぬと、出過ぎた真似とは思ったのですが、女東宮にょとうぐうに背中を押されまして」

 棕晨星は目をみはる。

「女東宮に」

「渦中の者は己が足元さえ見えぬ程焦っているかもしれぬから、外からの助言は有難いものだと」

 杜鵑花は頭を掻いて少し眉を下げた。

「天恵人参の代わりになるものを、女東宮は探しておいででした。いざという時に代わりになるものが無いと、命取りになるとの仰せで。勿論、天恵人参の栽培方法も継続して模索なさるそうです。土壌開発からですから、何年かかるかもわかりませんが。私たち薬師や医官がその折々に代替品を提示できたなら、きっと道は開けると思うのです。例えば今回の天恵人参と黄精おうせいのような」

 棕晨星は暫く黙考し、深く頷いた。

「全く以て仰せの通りですな。霊芝延命湯、良い考えと存じます。使ってみましょう。そうか、天恵人参の代わりに黄精を。確かに。確かに」

 杜鵑花はほっとしたように微笑み、頷いて。

 二人手を取って固く握り合った。

「ありがとうございます、杜鵑花どの。福徳延寿丸にのみ目が行っておりました。霊芝延命湯という選択肢があったことにすら気付かぬ有り様で。本当に何とお礼申し上げたらよいか」

「いえ、まだ若君のお身体に適応するかわかりません。その後にございますよ」

 棕晨星は六花の体質を知り尽くしている。

 幾らかの配分を変えれば、霊芝延命湯はきっと良い効果を生むだろう。


 六花の体調は程無く安定したという。


 そして。

 凍星は数日を掛けて書き上げた長い長い文を読み直し、折り畳み、立て文にした。

 そして、そっと文箱に仕舞い紐を掛ける。

 月明かりが、細く白く文箱を照らしていた。




「月白凍星さまより文が参りました」

 山桜桃ゆすらが恭しく文箱を捧げ持ち、榠樝かりんに差し出す。

 飛香舎ひぎょうしゃ

 どんよりと重い雲が空を覆っている。今日は雪が降りそうな天気だ。

 文箱を開け、榠樝は少し眉を寄せた。

 封を切る前から緊張感のようなものが漂っている。

「暫し、一人にしてくれ」

 人払いをし、榠樝は文を広げ、読み始めた。


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