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 月白つきしろ邸。

 物思いにふける当主凍星いてぼしの前にはなだ家当主苧環おだまきが現れる。

 確かに従者が先触れを告げていたが、本当に来るとは。

 凍星は少し目を細め、懐かしい友人を見た。


「何年振りだろうな。お前がここに来るのは」


 苧環はひょいと肩を竦めて、酒の入った朱塗りの瓶子へいしを揺らして見せる。

「さて、何年ぶりだろうね。仕事以外で君とこうして会うのは」

 苧環は凍星の隣に腰を下ろし、微笑む。

「月味酒といかないかい」

 相変わらず美しい男だな、と凍星は苧環をしげしげと見詰めた。

「見蕩れた?」

「抜かせ」

 揶揄からかう様子の苧環に、凍星は少しだけ気まずげに酒をあおる。

 図星だ。


「良い月夜だ。ずっと、見ていたくなる」


 澄んだ夜空に静かに浮かぶ月は、よく磨いた銀の鏡のように見える。

 見上げているこちらの顔が映るのではないかと思えるくらいだ。

 秋の月は格別の美しさがある。

「ああ。そうだな」

 友人の横顔を盗み見、苧環はそっと月へと視線を戻した。

「月にはこの世を去った者たちが居て、こちらを見ているのだそうだね」

 凍星が呟く。

知左ちさも月に居るのだろうか」

「居るかもしれないね」


 知左。凍星の側妾であった女性。六花の母親。そして凍星と苧環と、幼馴染でもあった。

 苧環の乳母子めのとごに当たる。所謂乳兄妹ちきょうだいだ。

 凍星の乳母と苧環の乳母は姉妹であり、よく行き来していた縁で、幼い三人は当然のように仲良くなった。

 それから幾年月を経ただろう。三人はいつの間にか大人になった。

 凍星と知左は恋に落ち、子をもうけた。そんな幸せな時間は瞬く間に過ぎて。


「皆、月に行ってしまった」

 凍星の乳母も、苧環の乳母も、知左も。

「私たちも年を取ったね」

「お前が言うと嫌味にしか聞こえん」

 苧環は二十年前から、殆ど容姿が変わっていない気がする。ただ艶が増した。

「男に言う台詞ではないが、お前は美しいな。年を取らぬように見える」

「私も老けたよ。腰も痛い年頃だ」

 苧環が笑い、凍星も笑った。


 涼やかな風が穏やかに木々の葉を揺らし、通り過ぎていく。

女東宮にょとうぐうが月白を気にしているようだが」

 ぴくりと凍星の指が引き攣った。

「何か困ったことがあったら、言いなさい。力になるから」

 酒をぐいと呷り、凍星は首を振る。

「何も無いさ」

 苧環は目を細める。

「君の癖。直って無いよ。困ると右の頬が引き攣る」

「見て見ぬふりをしろ。そういう時は」

「五雲国の薬師かい?」

たちま正鵠せいこくを射るな、お前は」

 嫌そうに顔を顰める凍星に、苧環は苦笑する。

「そう。女東宮の使いの者がうちの薬師に会いたいそうだ。女房と医官を遣っても良いかとふみが来た」

「探られれば痛い腹かな?」

「そういうことを聞くな。わかっているのに敢えて聞くのはお前の悪い癖だぞ苧環。もう、私は誰を信用し、誰を疑えばいいのかすらわからんというのに」

 凍星は無造作に視線を投げた。

「無理をするなよ、我が友」

 真っ向から視線を受け止め、苧環は言う。

 凍星は少しばかり泣きそうに笑った。

「お前は深入りするな。自分が何処に立っているのかすらわからなくなるぞ」

 ひらりと袖を振って苧環は表情を改めた。

「六花の病、良くないのかい?」

「いや、福徳延寿丸ふくとくえんじゅがんという薬を調合してもらって、今はもう元気だ。その筈だ。このまま薬を飲み続ければ、いずれは健康になれると薬師も言っている」


 ただ、その見返りに望まれている対価が高いだけ。


 凍星は酒を呷った。

「王が」

「ん?」

前王さきのおうが今の私たちを見たら、何と言うかな」

「お前たち、相変わらずまだるっこしいことをやっているな、とおっしゃるだろうね」

「違いない」

 凍星がふ、と吐息した。口遊くちずさむのは漢詩。

「秋風庭樹に鳴り、紅葉故友に散る。杯酒再び酌みて語り、共に憶う往時の遊びを」

 秋の風が庭の木々を鳴らしていく。紅葉が、今は離れてしまった友人に向かって散っていくように感じられる。杯に酒を注ぎ、再び共に酌み交わしながら語り合い、共に過ぎ去った昔遊んだ頃を思い出す。

 続いて苧環が詠む。

「秋風故里を吹き、孤雁影を相尋ぬ。遠道山水を隔て、夢中旧音を問う」

 秋風が懐かしい故郷に吹いている。一羽の孤独な雁が影を追いながら飛んでいる。遠い道程には山と川が隔たり、友と会うことはできない。夢の中で友の声を尋ね求める。


 知左も、前王も、乳母たちも、皆が去った。

 あの頃には戻れない。


「この年になると、昔がしみじみ懐かしく感じられる」

「老いたね」

「お互いにな」

 二人は苦笑して、月に献杯し、酒を干した。

「せめて子供たちは、穏やかに生きて欲しいのだが」

「そうだね。あの子たちの時代は、過ごし易いといい」

 銀の鏡のような月は無表情に輝いている。

「その為にも、私たちが頑張らねばならぬのだな……」

 吐息のような凍星の呟きに、苧環は軽く肩を叩いて慰めた。




 棕晨星しゅしんせいは老齢の薬師だ。白髪混じりの長い髪を束ね、穏やかな笑顔を絶やさない。目元には深い皺が刻まれ、優しさと知恵とを感じさせる。

 きっと誰もが心を許してしまうだろう柔らかさがあった。


「棕晨星と申します。この度はわたくしに何か御用とお聞き致しましたが、何事でございましょうか?」

 穏やかで落ち着いた風貌の老人に、堅香子は少し肩の力を抜いた。

柳堅香子やなぎのかたかごと申します。女東宮のお使いで参りました」

 堅香子の母は藤黄本家の出だが、父親は中流貴族柳家の者だ。普段は藤黄の者として扱われる堅香子だが、正式には柳の姓を名乗る。

「お久しゅうございます、棕先生。山鳩杜鵑花にございます」

 優しい笑みが深くなる。

「これはこれは、杜鵑花どの。お久しゅうございます。お変わりありませんかな?」

「はい。おかげさまで日々健やかに過ごしております。本日参りましたのは、女東宮が福徳延寿丸に興味を持たれましたので、そのことです」

 うん、うん、と棕晨星は頷いた。

「女東宮のお耳にまでも届くとは、福徳延寿丸も有名になったのですな」

 感慨深く頷く棕晨星に、堅香子が肩を竦める。


「有名なのは貴方でございましてよ、棕晨星どの」


「はて、それはどういうことでございましょうか」

「六花どのの主治医でいらっしゃるのでしょう?福徳なんとやらが女東宮のお耳にまで届き、それを調合できるという貴方のことに、いたく興味を示されました」

「畏れ多いことでございます」

 堅香子は檜扇を広げる。


「つきましては、その処方を記した書物、拝見することは叶いませんかしら」


 棕晨星は目をぱちぱちと瞬いた。

「それは、申し訳ありませぬが、お見せすること叶いませぬ。秘伝でございますゆえ

「まあ、そうでしょうね。杜鵑花どのも見せて貰えなかったという話ですものね」

 杜鵑花が頷き、棕晨星は目を細めた。

「福徳延寿丸は、奥義とも極意とも言わしめる薬にございますれば、ただ薬のみに精通しておればよいという訳には参りませぬ。人々の心の奥底にまで至れねば、福徳延寿丸の製法、お教えすることできませぬ」

 杜鵑花が感銘を受けたように深くこうべを垂れた。

 堅香子が檜扇の向こう側から目を細める。

「貴方はそこに至れたのでしょう」

 棕晨星はそっと頷く。

「わたくしもまだまだ未熟でございますが、どうやらその裾野に触れることが叶うたと、我が師がお認めくださいました。それ以来、精進して参りました。そのことが若君さまをお助けすることに繋がり、ありがたいことに存じます」


 穏やかで落ち着いた老薬師。今はそれ以上のことはわからない。

 堅香子はそっと目をすがめた。


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