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 はなだ邸の庭に降り、笹百合ささゆりはすっかり色付いた楓の樹に額を寄せ、溜め息をいた。

「紅葉散り、君と過ごせし彼の日々は……今やは遠く、思ひ出のみぞ」

 紅葉が散る頃に、貴方と過ごしたあの日々は、今や遠い昔のことのように感じられます。ただあの頃の思い出だけが残っております。


 笑顔の可愛らしい女東宮にょとうぐう榠樝かりん。幼い頃から知っている少女。

 春に榠樝の婿がねの一人として選ばれた時は、こんな気持ちは全く無かったのに。


 風が吹き、赤や黄色の葉が静かに散り始めていた。

 木々の間には萩やすすきが揺れ、囁くような音を立てて。

 池に視線を遣れば月明りを映した水面が揺らめき、木々の影が踊って見える。

 白菊の花が秋の終わりを告げるように、清らかに香って来て。


 彼女にこの庭を見せたいと思う。

 それどころか。


 笹百合はぎゅっと瞼を閉じるとかぶりを振って、思い浮かんだ考えを掻き消そうとした。

 榠樝の涙を拭いたいと思った。

 この腕に抱きたいと思ってしまった。

 そんなよこしまな思いを自分が抱くとは。

 しかもその相手は、敬い守るべき存在で。幼い頃から慈しんで来た榠樝で。

 笹百合は婿がねの一人であるだけで、充分だった。

 自分がくらべに勝ち残り王配になるなど想像もしなかった筈なのに。


 だというのに今日、初めて気付いた。

 胸の中にたぎる、譲りたくないという想いに。

 榠樝を誰にも渡したくない。


「ああ、なんという……」

 苦し気に寄せられた眉を、きつく閉じられた瞼を、震える睫毛を、月影が静かに照らしていた。




 飛香舎ひぎょうしゃ

 日暮れて落ちて。空は月が煌々と輝いている。

 風の音と虫の音とが調和して、物悲しくも麗しい。

 榠樝はきざはしに腰掛けて、頬杖をついて月を見上げている。


 ひどくぼんやりとした気分だ。

「ええい、うつけてる場合か!」

 ぺしんと両頬を叩いて首を振るも、笹百合の面影が目裏から消えてくれない。

 あんな表情の笹百合を始めて見た。

 好かれているとは思っていた。ただ、それは親しく妹としての類いのもので。


 恋とか愛とか。

 そういう感情にうつつを抜かしている場合では無いのだ。

 寝て起きたら夢だったということにはならないだろうか。

 そんなことを考えて御帳台みちょうだいに入ったのが悪かったのだろう。


 夢を見た。

 これで何度目だろう。


 霧のような乳白色。空は鈍い灰青色。星は無く、少し風がある。

 東屋で待つのはあの男。

「久しいな、私の織姫」

「また貴方なの、夏彦」

 にこやかに手を振る真珠色の髪の男。

「七夕はとうに過ぎ去ったわ。季節外れよ」

「気にするな。この場で季節も何も無いだろう」

「そりゃまあそうかもしれないけど」

「再会の抱擁といこう」

 両手を広げる夏彦に、榠樝は据わった目で応えた。


「断る」


「つれないな」

 苦笑しつつも想定内だったのだろう。特に気にもせず夏彦は東屋に腰を下ろした。

 手招かれ、榠樝も近くに座る。

 夏彦は足を組み膝に肘を置き、まじまじと榠樝を見る。

「何よ」

「美しくなったな」

 げふ、と榠樝が咳き込んだ。思ってもみない方向からの言葉に呼吸をし損ねた。

数多あまたの男に磨かれてきたか。色めく視線に染められたか」

「品の無い言い方止めて」

「失敬。だが当たりだろう。仕草に艶がある」

 榠樝は唇を噛んだ。

「なんだ。不満か」


「恋だの愛だのにかまけている暇は無いのに、なんで、こんな……」


 泣きそうに顔を歪める榠樝に、夏彦はひょいと手を伸ばし肩を抱いた。

「無礼者」

「気にするな。ここは夢であり現であり、何処でも無い。何をしようと誰も何も言わぬ」

 榠樝は夏彦に凭れて、顔を覆った。

「私が私でなくなってしまう」

 夏彦は榠樝を抱き寄せ、頭の上に顎を乗せた。

 夏彦の心音がとくとくと榠樝の耳に響いていく。


「恋の駆け引きは嫌いか」


 声が直接頭の中に響いていく感じだ。

「嫌い。大嫌い。皆、変わってしまうわ。私は私のままなのに、どうして……」

 榠樝の髪を撫でながら、夏彦は甘く囁く。

「触れられて、口付けて、抱かれて、溶ける。心地良い熱に浮かされてみたいとは、思わぬのか?心も身体も溶けて、ひとつになりたくはないか?」


「そういうの、要らない。私が欲しいのは……」


 口にして、ふと、気付いた。

 自分を包む甘い熱に。逞しい腕に。低い声に。


 慌てて夏彦から離れようとして、できなかった。夏彦の腕は揺るぎもしない。

 かぁっと頭に血が上った。

 夏彦が榠樝の耳に唇を寄せ、甘く囁く。


「私はそなたをむさぼり喰ってしまいたいぞ」

 ぞくりと何かが背中を駆け上って。

 榠樝は勢いよく首を振る。

「いや!放して、放せ!」

「放さないと言ったらどうする?」

「命令ぞ!放さぬのなら人を呼ぶ!」

 夏彦が身を震わせて笑った。


「ここへ?どうやって?」


 榠樝は目を瞬く。そういえばそうだ。

 ここはどこだ。

 夢の中だ。

 ならばきっと、


 榠樝は力一杯助けを呼んだ。

「誰か!!助けよ!!女東宮の命ぞ!!」

「だから無駄だと……。何だ?」

 ぐるる、と獣が咽喉を鳴らすような声が近付いて来る。

 重い足音。そして夏彦が何かを叫んで飛び退いた。

 榠樝の前に居るのは。

「……なに?」

 大きな大きな猫だった。背丈は榠樝よりもあるだろうか。

 これは話に聞くところの虎というものなのだろうか。

 唖然と見上げていると、それが振り返って、鳴いた。


 なぁおう。


 とても低かったが、確かに聞き覚えのある甘えた鳴き声。

 榠樝は恐る恐る聞いてみる。

「……万寿?」

 なぁぁぁん。

 それは満足そうに鳴いて、榠樝に頭を磨り寄せて来た。

 が、大き過ぎて潰された。

「おも!重い!万寿、潰れる!」

 前足で押さえられ、べろんと大きな舌で顔中舐められて。


 そんなこんなで夢は覚めた。

 見慣れた御帳台の天井。


「重い」


 視線を遣れば胸の辺り、万寿麿まんじゅまろが丸まって満足そうに眠っている。

 まさか万寿麿が本当に助けてくれた訳では無いと思うけれど。

「ありがとう。助かった」

 万寿麿はむにゃむにゃと何事か呟いて、寝た。

「いや、だから。退いてくれぬと起きられぬのだが」


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