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 柔らかな薫香くんこうが漂う。落葉らくようだ。

 穏やかで奥深い香り。静寂の中に深い安らぎが感じられる。


「お召しにより参上致しました」


 縹笹百合はなだのささゆりが優雅に御簾みすを揺らし、現れる。相変わらず完璧な物腰だ。

 落葉の香りはこの季節に、そして笹百合に良く似合う。

 入れ替わるように。堅香子かたかご山桜桃ゆすらに連れられ、紫雲英げんげ紅雨こうう飛香舎ひぎょうしゃを退出する。

 笹百合は榠樝かりんの前にぬかづき、嬉しそうに述べた。

「素敵なお文をありがとうございます。紅葉もとても美しく、心洗われるようでした。蔵人所くろうどどころに居りましたもので、同僚に揶揄からかわれましたよ」

「それは済まぬことをした」

 恥ずかしそうに目を逸らせば、笹百合はいいえと首を振る。

「誉れにございますよ。ところで宜しかったのですか?二人を帰してしまって」

「うん。少し内密に話したいことが、というか頼みたいことがある」

 笹百合は表情を少しだけ改めた。

「何なりとお申し付けください」


 榠樝は何処から話すか少し迷った。

「そなたの父苧環おだまきと、月白つきしろの大納言だいなごん凍星いてぼしが幼馴染と聞いたが、真実まことだろうか」

 意外な話が来たからだろう。笹百合が目を瞬く。

「ええ。確かに父と凍星どのは幼き頃より親しき仲にございます。よく我が邸にもいらしておられましたよ。近頃はすっかりご無沙汰しておりますが」

「最近は来ておらぬのか?」

「ええ。お見掛けしてはおりません。父も月白邸へと赴くことが無くなりましたね。そういえばいつからでしょうか。父は凍星どのを揶揄からかうのが好きで、あちらからは嫌がられておりましたから、それもあるのでしょうか」


 榠樝は少し口元に手を遣った。

 考える時の癖だと、勿論笹百合も知っている。

「何をお考えなのですか?私で適うことならば、お力になりたいと存じます」

 ちら、と榠樝が上目遣いで笹百合を窺う。

「どう訊いたらいいか、迷っている」

「父と凍星どののことをですか?」

 言葉を選びながら、榠樝は少し視線を揺らした。

「というより、月白凍星のことだな」

 笹百合はきょとんとした表情だ。


 洗いざらい話して、協力してもらおうか。それとも。


「月白六花りっかのことを、知っているか?」

「末の若君ですね。身体が弱くておられるから、凍星どのが随分と大事になさっているのは恐らく皆さまご存じでしょう」

「うん……。腕のいい薬師を雇ったとか、そういう話を聞いたことは?」

 笹百合は少し考える仕草をし、記憶を手繰る。

「何年か前、四郎……今は六花どのがまだ幼き折にそのような話があったような、無かったような……。曖昧でございますが」

 笹百合は少し表情を改めた。榠樝が心許なげに眉を寄せている。

「何が、貴方をそのように不安にさせるのです?お話し頂けませんか。私では頼りなく思われますか?」


 榠樝はとても困った表情で笹百合を見上げた。

 幼い頃そのままの榠樝の顔だ。


「ああ、その様なお顔をさせたいわけでは無いのに。申し訳ありませぬ」

「笹百合」

 榠樝は笹百合の袖を取って、顔を寄せた。

「何をどう説明したらいいのか、どこから話せばいいのか、わからないわ」

 下手に掻い摘んで話せば誤解を招きそうな話だし。かと言ってすべてをつまびらかに話せる程、いろいろなことが榠樝の中で纏まっていない。

 そっと。

 壊れ物を扱うように丁重に、笹百合は榠樝の髪に触れる。

 優しく頭を撫でてくれる手に、少しばかり懐かしくなった。


「昔もよく、撫でてくれたわね」

「お小さい頃以来ですね。ご無礼をお許しください」

 榠樝はそっと目を閉じた。

「私が探しているものが、縹か月白にあるかもしれないの」

「何をお探しなのですか?私に差し上げられるものでしたら、何なりと」

「何かは私もわからない。卜占ぼくせんの結果がそう出たの」


 曖昧過ぎて、榠樝は少し可笑しくなった。


「馬鹿馬鹿しいと思うでしょう。でも私も必死なの」

「くだらないとは思いません。貴方はいつも一生懸命頑張っておられます」

 優しさの溢れる声音に榠樝の顔がくしゃりと歪んだ。

「でもね……頑張っても、頑張っても、足りないの」


 震える声。

 涙の気配に笹百合の手がびくりと引き攣った。


 ふと胸をよぎったのは黒い感情。


「榠樝さま、どうぞお手をお放しください」

 硬質な声に榠樝は苦笑し、笹百合の袖から顔を起こした。

「ごめんなさい。女童めのわらわみたいなことをして、困らせたわ」

「いいえ」

 笹百合は苦しそうな表情をしていた。

 見たことのない表情に、榠樝は驚いて目をみはる。

「笹百合、どうしたの?どこか痛い?」

 笹百合は眉を寄せ、顔を背けた。

「榠樝さま、これ以上私に近付いてはいけません。止まれなくなる」


 榠樝の伸ばしかけた手が止まった。


「え」

「貴方の涙を拭いたいと、思います。ですがそのようなことをすれば、私はもう、己を止めることができなくなる」

「笹、百合……?」

 笹百合は丁寧に頭を下げた。

「私が貴方を傷付ける前に、今はおいとまを頂戴したく存じます」




 袖で顔を隠すように、足早に去って行く笹百合の背中を呆然と見送って。

 榠樝はそっと小首を傾げた。

「え?」

 不可解な笹百合の態度に疑問ばかりが浮かんで、消える。


 何だ、今のは。

 榠樝は笹百合の言葉を反芻して。

 表情を、仕草を思い出して。

 カッと頬に血が上るのを感じた。


 いやまさか。有り得ない。そんなことがある筈がない。

 どきどきと早鐘を打つ胸を押さえ、首を振る。

 だって、笹百合は兄のような存在で、榠樝を妹のように慈しんでくれて。

 榠樝も確かに彼を慕ってはいるけれど。

 確かに婿がねの一人だけれど。


 だって、あれではまるで、笹百合が榠樝に恋をしているようではないか。


 なぁう、と万寿麿まんじゅまろがやってきて、尻尾を揺らす。

 榠樝の膝に手を置き、構って貰いたいようだ。

 万寿麿を抱き上げ、榠樝はその腹に顔を埋めた。

 なうなう!と万寿麿は抗議の声を上げるが無視する。


 どうしよう。


 顔が熱い。頬が、耳が、燃えるようだ。

 堅香子かたかごたちが戻って来るまで。

 万寿麿の腹に顔を埋めたまま、榠樝は床に突っ伏して固まっていた。


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