「海防の備えは少し遅かったか」
苦々しく榠樝が唸る。
「予想より早かったですね」
「まさか
「海賊は
「そう、
南天はがりがりと首を掻き、答える。
「わかりません、としか今の所言い様が無いですね。海賊はもともと何処の国にも属さず、まつろわぬ存在。
銀河が頷き補足する。
「ですが通常の海賊は、海上交通の保護と引き換えに金品を要求するくらいの筈。
「確かに。陸の拠点が欲しかったにしても、郡衙を落とす程の武力を持つものなど、今まで耳にしたことはございませんな」
深雪が聞いたことがないというのだから、間違いなく前例の無い事態なのだろう。
榠樝が首を捻る。
「しかし斑鳩
「労力の確保でしょうな。また、何処ぞに
榠樝の眼が零れ落ちそうに見開かれた。
「人を売るのか!?」
「売買は禁止されておりますが、都の
南天が何と言うことも無い調子で言い、榠樝は衝撃を受けた。
銀河が南天を肘で小突く。
余計なことを言って女東宮を惑わせるなと、鋭い眼が語っている。
「……何処の者かはわからずとも、我が民を傷付け奪い、また郡衙までをも陥落させし存在をそのままにはしておけぬ」
動揺したままだが、榠樝はまだ冷静な判断ができる。
深雪が頷き銀河を見る。
「征討軍の準備は」
銀河が答える。
「万端とは参りませぬが、すぐにも
南天が割って入った。
「おっと、左大将どのはこのまま都の守備を固めてください。北へは俺が、じゃねーわ、私が」
ぎらぎらと輝く双眸は肉食獣のそれに似て、少し怖い。
「南天、そなたが行くのか」
「御意。敵が誰だかまだわかりませんが、海賊と同時に五雲国も攻め入らないとも限りません。左大将にはこのまま女東宮の警護と、残った征討軍の整備をお願い致したく」
深雪が頷く。
「確かに五雲国への備えは変わらず必要でしょう。現在整っている征討軍の半数を北へ、半数を都に残されては」
「北の大宰府軍とも合流すれば、それなりの戦力になります。一度ならずも敗走しているそうですが、将が変われば戦も変わる。私が行きます」
榠樝は
「わかった。藤黄南天に征討軍の半数を任せる。北の海賊らを討ち、見事平定せよ」
「はっ」
深雪が榠樝を振り返る。次にやるべきことは心得ている。
「祭祀の準備であろう?」
榠樝は力強く頷いた。
「御意」
時間的余裕があるのならば、南天も儀式に参加させた後、出立という手順を取りたかったが、ことは一刻を争う。
「右大将に征討軍のことは一任。我らは戦勝祈願をせねばなるまい」
文書でしか知らないこと。戦。その為の祭祀。儀式。やるべきこと。
「まずは精進潔斎だったな」
記憶を手繰り寄せ、榠樝が訊く。
摂政として蘇芳深雪もやらねばならないことが多い。
「
祭祀に纏う白一色の装束は、その度毎に新調するものとされている。
清められた白絹と白糸を使い、精進潔斎した女官たちが縫わねばならない。
かつて使用されたのは恐らくは八〇年は前のこと。
皆、勝手がわからない。
右往左往する者たちに深雪が一喝した。
「狼狽えるな!
的確な指示に安堵しつつ、榠樝は飛香舎に戻る。既に
「この時期に水風呂など全く以て許し難いのですが、禊では致し方ありません。どうぞお風邪を召しませぬよう」
禊を水風呂と言う堅香子に榠樝は思わず吹き出した。
「こら堅香子。神聖な儀式ぞ。女東宮の大事な役目だ」
「失礼致しました」
禊は祈祷した浄水を湯船に注ぎ、単衣のみを纏ってその水を浴び、身を清めるものだ。
夏に川で身を清めるのとは違う。この時期に行えば確かに風邪を引きかねない。
だが虹霓国の王の大切な役目の一つは、時に荒ぶり時に和む神々を、祟られぬ為に
王が不在の今、女東宮が行わなければならない。
征討軍の勝利を祈り、犠牲者が少ないことを願い、一刻も早い収束を念じる。
「禊の後は白湯と白粥をお召し上がりください」
それも潔斎の内だ。
「ん。では参るぞ」
「御意」
潔斎を済ませた白装束の一団が祭壇に向かって一礼。
清らかな水飛沫がきらきらと飛び散る。
そして祭壇の前に進み出て榊葉を献じ、祝詞を奏上。龍神を祭壇に迎え入れる。
続いて榠樝が進み出た。新しい装束は、縫い上げられたばかりの艶やかな白絹である。
戦勝を願う祝詞を奏上し、加護を願う為の祈りを捧げる。
巫女が勝利を象徴する鏑矢を祭壇に捧げ、次いで舎人たちが米や酒、魚や果物などの供物を捧げた。
供物を捧げた舎人らが下がり、神楽が奏される。
奉納舞は五人。巫女四人と、中央に榠樝だ。
静々と舞う巫女たちに、平静を装って榠樝が続く。
正直間違えていないか不安だ。
しかも中央。一番目立つ位置である。努めて冷静に、沈着に。厳かに。榠樝は舞う。
これで大丈夫なのだろうか。龍神さま、努力は認めてください。
などと余計なことを考えながら、なんとか奉納舞を終えた。
著しい間違いは無かったはずだ。
たぶん。
神祇伯が再び祝詞を奏上。龍神に天への帰還を願い、儀式は終了する。
「舞の半ばで、上げる御手が反対でしたわ」
榠樝はそっと首を振る。
「気持ちが大事。心は込めた」
自身に言い聞かせるような榠樝に山桜桃は頷いたが、堅香子はこっそり思った。
最後の拍子もズレていた。
(まあでも従兄弟どのなら何があっても大丈夫でしょう。きっと)
絶大なる信頼を寄せ、堅香子は南天の無事を祈った。