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山桜桃ゆすら扁桃アーモンドのような眼をきらきらさせて榠樝かりんを見つめた。

「榠樝さま」

「はい!」

思わず背筋を伸ばしてしまった榠樝の両手を取って。

山桜桃は何とも言えない蠱惑こわく的な表情を見せた。

紅雨こううどのは蘇芳の切り札であると同時に、榠樝さまの切り札とも成り得ます。おわかりですか」

小さく首を振る榠樝に、山桜桃は笑みを深くする。

「紅雨どのは誰が見ても一目瞭然、榠樝さまのとりこです」

堅香子かたかごが強くうなずき、紫雲英げんげも同意した。

「誰の目にも明らか。現に紅雨どのの恋文で手筥てばこはいっぱい。溢れんばかりですわ」

榠樝が少し視線を流す。

「正直、どうしたらいいか、わからなくて、困っている」

雨霰あめあられと送られてくる恋文は榠樝の悩みの一つともなっている。

山桜桃はぎゅっと榠樝の手を握った。

「ですから、落としてしまいましょう」

真っ直ぐに榠樝の眸を覗き込んで、山桜桃は言う。

「紅雨どのは榠樝さまの切り札に成り得るのです。取り込んでしまえばこちらのもの」

「蘇芳家次期当主ですものね」

「現当主、躑躅つつじどのに対抗しうる駒だ」

堅香子が言い、紫雲英が頷く。

「つまりは摂政どのへの一手として、これ以上ない手ですわ」

目をぱちぱちとさせる榠樝に、紫雲英が重ねて言った。

「碁の勝負と思えばいい。貴方なら、どう打つ?摂政どのの陣地の重要な一角、紅雨はアタリの状態だ」

すっと榠樝の表情が改まる。

恋だの愛だのには疎くても、碁ならばわかる。

「呼吸点を封じて、取る」

迷いの無い答えに、紫雲英がにこりと笑った。


榠樝ははたと我に返る。

「いや、しかし私は紅雨を婿に迎える気は」

「無くても良いのです」

言い切った山桜桃に狼狽うろたえて堅香子を見るも、迷いなく同意されてしまった。

「殿方の一人や二人手玉に取れなくて女東宮は務まりませんわ」

「いやそれはどうかと思うが、まあ、概ねは同意する」

最後の頼みの綱の紫雲英までもが、曖昧にだが頷いている。

「紫雲英まで……!」

衝撃である。

「紅雨を味方に取り込めばいいだけだ。婿に迎えるとも、想いを受け取るとも、一言も言わねば良いだけのこと……なのだろう、恐らく」

最後が自信なさげになるのが紫雲英らしいといえばらしい。

「すまぬ。私も色恋にはけているとは言えぬのだ」

「それはこの場の誰もが存じておりますわよ」

堅香子が呆れたように言った。

山桜桃は二人の遣り取りを無視して榠樝を強く見つめる。

言質げんちを取られず、相手の弱みを突き、味方に引き摺り込むのですわ。簡単なこと。だって紅雨どのは榠樝さまに落とされたがっておいでなのですから」

「え」

ぽかんとした榠樝に言い聞かせるように、山桜桃は殊更ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「あなたのものになりたいと、言わせておしまいなさい」

扁桃の様な眼が、榠樝を捉えて離さない。




「まずは呼び出し状ですわね」

堅香子が文台を用意し、硯箱を差し出す。

山桜桃は良い紙を選ぶのに余念がない。

紫雲英は居辛いのだろう、落ち着かなさげに万寿麿まんじゅまろを撫でている。

「そも、何を書けばいい?」

途方に暮れている榠樝だが、女房二人はやる気に満ち満ちている。

「何でも宜しゅうございますわ。会いたいとか、話がしたいとか、適当で」

「適当でって……」

「思いつかなければ何かしら和歌うたでも書いて、待っていると添えれば宜しゅうございます」

榠樝が頭を抱えて悩みに悩んで、結局書けたのは一言。


きみの来るを待ちかねたり

飛香舎にて


あまりにも簡素に過ぎるが紅雨の胸を打つには十分だった。

本当は女東宮としての矜持プライドから気の利いた和歌を添えたかったのだ。

洒落た時候の挨拶風のものを。

けれどもできた和歌はまるで別物。


君をこそ思いつつ夜は更けゆきて夢の中だに来るを願へり


あなたを思いつつ夜は更けていき、夢の中でさえ(あなたが)来ることを願っているのです。


君待てば夜の静寂しじまにただひとり心焦がして月を見上げる


貴方を待ちながら、夜の静寂にただひとりで心焦がして月を見上げています。


榠樝は紅雨を恋い慕っているわけでは無いので嘘くさすぎる、と屑籠に投げられた。

というより単純に恥ずかし過ぎた。

「勿体ない」

もし届いて居たら、紅雨は嬉しさのあまり昇天したのではないかと堅香子などは思ったりした。


秋風に揺るる紅葉の色づきて季節の便り君に届けん


秋風に揺れる紅葉が色づきましたので、秋の訪れを知らせる便りとしてあなたに届けます。


中々上手く出来た気がしたが、なんか違う、とこれも屑籠に入れられた。

榠樝は和歌が得意ではない。


そんなこんなで席を整えているうちに。

それこそ瞬きする間に紅雨が来た。

早過ぎる。

恋する男は風より早い。


「お召しにより参上致しました。蘇芳紅雨、此処に」

何でも蘇芳邸から騎馬で内裏まで、文字通り駆け付けたらしい。

これでまた噂が飛び交うだろう。内心頭が痛い。

けれど榠樝は努めて平静に声を掛ける。

「よく来てくれた」

御簾みすの向こう、紅雨が平伏する。

「近こう」

「は」

紅雨が平伏したまま少し前へ出た。

「紅雨、それでは声が遠い」

榠樝の台詞にかあっと紅雨が耳まで赤くなった。

恋い慕う人から近くに寄れと、声が遠いと言われて。名前を呼ばれて。

舞い上がらない男が居ようか。居るまい。

立ち上がり、御簾近くまで寄り、紅雨はまたこうべを垂れた。

榠樝の纏う香りが紅雨の鼻先をくすぐっていく。

甘い、と感じるのは紅雨の気の所為だけではあるまい。

華やか過ぎない、落ち着いたすがしさの中に、優しい甘さが香る。

少女が纏うにはやや瑞々しさに欠けるだろうか。少しの寂しさを含んだ秋の風のようで。

だが、包まれたいと思う様なかぐわしさだ。

「そなたを呼んだのは他でもない。頼みたいことがある」

「何なりとお申し付けください。この蘇芳紅雨、女東宮の御為とあらば、月であっても手に入れて御覧に入れます」

ふ、と榠樝が笑った。

「そなたはこの前もそのようなことを言ってくれたな。嬉しく思う」

「畏れ多いことに存じます」

泣きそうだ、と紅雨は平伏したまま思った。

恋い慕う彼女が、嬉しいと言ってくれた。天にも舞い上がれそうだ。

す、と御簾の端が持ち上がる。

袴の裾が見えた。

そのまま御簾はすとんと落ちて。

衣擦れの音と優しい香りが近付いて来る。

耳の奥、己の早鐘のような鼓動が聴こえる。

跳ね上がるようなそれは、胸を突き破って飛び出て来そうだ。

袴の裾が、袿の端が、紅雨の眼に映る。

すとん、と目の前に、榠樝が座った。

紅雨は震え出したいのを、理性を総動員して抑え込んだ。

御簾から出て、恋しい人が今、目の前に、手の届くところに居る。

「紅雨。おもてを上げよ」

玉響たまゆらの声。

考える前に身体が動いた。

顔を上げたすぐ側に、榠樝が居た。

思ったよりも近い。

もう、何を思えばいいのかわからない紅雨だ。頭の中はぐちゃぐちゃ。

洒落た言葉やら、何やら、色々思い描いて来たはずなのに、何一つ思い出せない。

「お会いしとうございました」

やっと言えたのはそんな台詞だけ。

ふわり、と榠樝が微笑んだ。

紅雨は手を触れたい気持ちを、僅かに残った理性で精一杯押さえ付ける。

「紅雨」

榠樝の艶やかな朱唇が己の名を呼ぶ。

その声さえ甘いと感じてしまう。

「は」

「そなたは私を好いてくれているな」

紅雨はうっとりと頷いた。

「はい」

そんな紅雨に榠樝は目を細め、言った。

「私はそれを利用しようと思う」

一瞬、何を言われたのか紅雨は反応に困った。

「は……?」

ずるい女ですまぬな」

「女東宮?」

榠樝は紅雨の眸を覗き込み、言う。

「私はそなたが欲しいのだ。蘇芳紅雨。蘇芳家でなく、摂政でなく」

言葉が身体を縛っていく気がする。

絡め取られる。

「私につけ」

甘くさえ聞こえるその言葉に、紅雨はうっとりと平伏した。

「仰せのままに」

どこか夢心地で紅雨は言った。

それはもはや宣誓に近い何か。

すべて、捧げてもいい。

身も心も、この命さえも。

「蘇芳紅雨、今よりこの身を女東宮にお捧げ致します。どうぞ何なりとお申し付けくださいませ」


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