その深夜――カンジは寝床を抜け出して、師が普段使う方の厨房へ向かった。時刻は、午前三時。
はたして蝋燭めいて小さな電球をともした室内に、もう一人の影があった。
「師父。お呼びに応えて参上いたしました。えーっと、頭を三回たたかれたのは『夜の三時』、後ろ手をこれ見よがしに去られたのは、『厨房の裏手から』で間違いございませんでしたね?」
「うむ。我が心中の謎、よくぞ解いた!」
「よしてください。完全に西遊記の第二回、須菩提祖師の謎かけのまんまじゃあないですか……子供でも分かりますよ。それで、何を教えていただけるんです……?」
「……お前はノリが悪いのう。可愛げがないわい」
「それはまことに申し訳なく」
まあ良いわ、と肩をすくめて、胡耀海は部屋の照明を一段明るく切り替えた。
「本題に入ろう……お前の兄弟子、ゲルハルトのことはなにか聞き知っておるか?」
「大佐……いえ、師兄は、まだ軍にいるはずですが」
「だろうな。つい一年ほど前に一人でここに来たが、これ見よがしに軍の上級将校の軍服を着けておったわ。そうか、あれは大佐の軍服だったか」
「ここに……!?」
カンジは顔と腹の底が熱くなるのを感じた。怒りと敵意。筋肉が緊張し、アドレナリンが血管を駆け巡る。
ゲルハルト・マークスマン大佐。胡耀海の初期の弟子だ。カンジが軍に入ったのも、直接にはこの男の誘いによるものだったが――
「ふむ。その様子だとやはりお前たち、何かあったらしいな」
「ええ」
あったどころの騒ぎではない。カンジが給糧システム担当の軍属から、いきなり兵士として降下機動歩兵部隊へ転属させられたのも、件の兄弟子のせいなのだ。
「……何をしに来たんです、師兄は? よりにもよって
「わしには分からん。特に何かするわけでもなかったからな。だが、わしの手元にいたころと比べると随分変わっていた。あの過剰なまでの自信と、相対して感じる異様な気迫、圧力……師に対してむき出しにするようなものではないと叱ったら幾分大人しくなったが、ともすると危ういな、あれは。軍で何をやっているのかわからんが、どうもよくないものを感じた」
「……私のことは何か?」
「それがな。お前のことだけは、あからさまに避けていると分かるほど、話題にしようとせなんだ……それがどうも気になってな。この機会に、余人を交えずお前の話を聞こうと思って呼び出したわけだ」
「そうでしたか……」
カンジは深くため息をついた。これだけの年月を経ても、やはり過去は断ち切れないのか。
「他に何か、気づいたことや印象に残ったことは……?」
「そうだな……表の小川にかかった橋の補修を手伝ってくれた。で、ちょうど汲んできていたあの『スープ』を振る舞ってやったら、いたく気に入ったらしくあれこれと尋ねてきたから、三リットルほど土産に持たせてやったよ」
(あれを?)
カンジは軽いめまいを覚えた。あの男に、原始生命スープを渡してしまったというのか――
まぶたを閉じて深々と吐き出したため息は、その後半にひと続きの言葉を引きずっていた。
「人們就是他吃的東西(人は食べたものによって成る)……」
胡耀海がぴくりと眉を動かす。
「どうしたのだ、急に? それはわしがお前たちに何度も暗唱させた言葉だが……」
「師兄は……いや、ゲルハルト・マークスマンは、師のあのお言葉を汚し、自分の欲望のために捻じ曲げました」
「何だと? 詳しく説明してくれるか、カンジ」
「はい……マークスマンは軍の給糧システム部門にあって
カンジの説明に、胡耀海は心外極まりないという顔で非難の声を上げた。
「莫迦なことを! あれは、単に栄養学的な原則を常に忘れるなという、ただそれだけのことを東洋的な思想に敷衍しただけだ。なぜそんないかがわしい話に……!?」
「その発想の経緯は私にも分かりません。しかし……今回の原始スープの一件から、思いだしたことがあります」
カンジは、自分がたどった連想の道筋を、どうにか師に説明しようと試みた。
人は――生命は。実際には食べたものそのままで構成されているわけではない。食物の中でも、特にタンパク質は、消化液によって徹底的に分解され、二〇種ほどのアミノ酸から、体に必要な各種のタンパク質に再構成される。
また、別種の生き物を食べたからと言ってその形質を獲得する、などということは原則的には起きない(※)。消化に加えて、生物の体には多くの場合、免疫という異物排除、同一性保持のための機能が存在するからだ。
だが例外はある。例えば病原性タンパク質「プリオン」は、熱を加えてもその性質を失わず、食べたものの体組織に食い込んで脳などの機能を破壊していく。
「マークスマンは、例外的に存在するそうした現象についての知見とデータを、片端から収集させていました。調理と消化、そして免疫を回避して人体に取り込まれ、その組織を改編する改ざんしていく有機分子。それをもとに、人体を形質的に強化する経口サプリメントを作り出す、というのが奴の目標でした――私はそれに反対し、なんとか思いとどまらせようとしたのです」
だが、カンジの思惑通りにはいかなかった。カンジの、兄弟子の本性に対する見極めはまだ甘く、組織の中で権力がどのような誤作動を起こしうるかということへの洞察も、まるで足りていなかった。
「その報酬が、機動歩兵科への転属です。報復人事ですよ、組織の区分上、本来なら絶対にありえない移動なんだ」
「お前が機動歩兵に? 無茶を強いられたものだ。よく生きて戻れたな」
「命こそ失いませんでしたが酷い戦場に何度も送り込まれ、挙句に負傷して……まともに泣いたり笑ったりもできない顔になってしまった。やっとのこと除隊出来た後、しばらくはもう何もする気になれませんでした」
「そうか……それであんな、魂の抜けたような様子でここに……すまなんだな、カンジ。俗世での見聞も必要かと、お前をゲルハルトについて行かせたのは、わしの落ち度だった」
カンジは首を振った。師の責任ではない。憎むべきはゲルハルトの野心と、それを抱かせた軍という組織のシステムそのものだ。
「それにしても、まさかあの警句をそんなバカげた解釈で、食と生の冒涜に等しいプランに援用するとはな。愚かなりゲルハルト。
悔しそうにうつむき、拳を握って肩を震わせる。彼はゆっくりと顔を上げると、懇願するようなまなざしをカンジに向けた。
「カンジよ。お前は実のところ今回の試験で、わしが一番試したかったところをクリアした。わしとの勝負に臨んで委縮することなく、与えられた材料を超えてその場で新たな調味料を、レシピを編み出して、堂々と自分の料理を作り切ったな……そして、お前の周りにはさまざまな資質と能力を備えた同行者がおるようだ。力と技、柔軟さ、行動力、そして機知……大事を為すにはまたとない、得難い仲間が」
「師父、もしや私に――」
「うむ。七年前のお前は見る影もない抜け殻のようだった。だが、今は違うようだ。カンジよ、軍関連でこれと言って聞こえてくる話がない所を見ると、ゲルハルトはまだ自身の計画を完遂できてはいないのだろう。今からでも間に合うかもしれん、奴を見張ってくれ。そして、取り返しのつかぬことが起きるその時は……あ奴を止めてやってくれんか。今のお前なら、ゲルハルトを料理の正道に引き戻せるだろう……さもなくば――」
「師父。私は一介の料理人です。
カンジは師父に向かって、ためらいながらも右手を差し伸べた。
「
※ なお、捕食したカツオノエボシの刺胞を取り込んで自分の体表に移動させて防御に用いる生物「アオミノウミウシ」のような特例は存在する。