目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報
第39話 一炊の明晰夢.1

  * * * * *


「……」


 クロエだけ広間に戻っての食事を間に挟んで、かれこれ四時間。カンジとクロエの前には試作品の味見に使った幾つもの小さな椀が並んでいるが、スープは完成に程遠かった。


「ふーっ。駄目だな、これは……どうも違う。味がきれいにまとまらない」


「私にはよくわかりませんけど、確かになんか平凡というか……何かすでにあるスープに近づこうとして、肝心のところで余計なものに邪魔されて全部台無しっていうか」


「余計なもの、か。俺よりもよほど言語化できてるじゃないか……だが分からんな、俺は何を見落としているんだ?」


 肩を落として天井を仰ぐカンジに、クロエもため息交じりに答えた。


「私にもさっぱりですよ。分かってたらちゃんと助言できますからね……」


 そりゃそうか、とカンジがうなずくだが、彼の声には明らかな疲労の色が見えた。


「少し休みませんか?」


 クロエの呼びかけに、カンジがふっと背筋を伸ばした。


「そうだな。茶でも飲むか……」


 席を立ってティーセットの入った戸棚へ向かう。クロエはその背中に少しいたずらっ気を込めて声を投げた。


「あ、じゃあ私コーヒーで」


 俺が淹れるのか、とぼやきながらカンジが湯を沸かす。それぞれの飲み物が出来上がると、カンジはそれをテーブルまで持ってきた。


「砂糖はいくつ?」


「要りません、私この苦みが結構好きなんで」


「そうか」


 互いに無言で茶とコーヒーを啜る。そうこうするうちに、急におかしな好奇心が頭をもたげてきて――クロエは、さほど考えることもなく、それを口に出した。


「さっきのヨツバネトキとか言う生き物ですけど。もしかして、食べたりしたんですか……?」


 ぶっ、とカンジがお茶を吹き出しかける。手近のナプキンで口元を拭いながら、カンジは否定の手ぶりをした。


「試してみたことはある……師匠もあの頃は、壺天の生物をひとつひとつ、食材としてチェックしていた時期だったからな。だが、あれはダメだった。体の大部分が、スカスカに空洞のあるキチン質に類似の殻でできていて、極端に可食部分が少ないんだ。おまけに筋肉にはサメかエイみたいにアンモニアが溜まってて……」


「可愛いとこがだいぶ減ってきましたね……じゃあ、全くいいとこなしでした?」


「うーん、色々試した中で何とか口に入れられたのは、皮をはいで中身を日干しにした奴ぐらいだったな……焦げる寸前まで火を通すと、くだんの骨格部分も煎餅みたいになって。ただ、焦げかけなんでどうにも苦くて――」


 だらだらとまくし立てていたカンジだったが、そこまで言いかけてはっと口をつぐんだ。


「ど、どうかしました?」


「ブラックコーヒーに、焦がした干物……苦み。そうだ、忘れてた。味にはもう一種類、苦みってものがあったな……!」


「苦み……」


 クロエは手元のコーヒーカップを見つめながら繰り返した。


「そういえばさっき、基本の塩と胡椒だけのやつを味見したとき……ちょっとまだ鉱物っぽい味が残ってましたね。あれも苦みといえば苦み――いや、違うかな? 渋みと言った方がいいかも……」


「……クロエ」


 カンジの声が奇妙に軋んで聞こえた。


「は、はい?」


「そういう重要なことは、早く教えてくれ……なんてことだ、全然気づけなかった。いつかの『宇宙臭い』の話みたいだな……」


「す、すみません。遠慮せずに早く言った方が良かっ……え? 宇宙?」


 急に予測していなかった単語が放り込まれてクロエは戸惑った。


「いや、待てよ……ああ、そうか!」


 両手をパァンと打ち合わせて、カンジが破顔する。


「何度かアレについても考えて色々調べてみたんだが、いま確信が持てたぞ。クロエは恐らく、何種類か特定の化合物に対して、常人より鋭敏な味覚、嗅覚を持ってるんだ。『宇宙臭い』匂いのもとは多分、気密区画に使われる精密駆動部品の潤滑油――その添加剤だと思う」


「ああ、言われてみれば……いやまあ匂い物質に敏感なのは確かにそうですけど、それを感じる場所の謎が解けたかも……! でも、これってスープの味付けに何か役に立ちますかね?」


 分かったようなわからないような気分。そんなクロエに、カンジはもどかしそうに畳みかけた。


「立つさ、立つとも! 味がまとまらないのは、そのほんとに微妙な、わずかな鉱物質が作り出す苦みや渋みのせいだと思う。それを抑えて、或いはより引き立てて味を組み立てる必要があるが、そうなると……」


 カンジはポケットから端末を出し、ものすごい速度でなにかを走り書いた。それが済むと油をよく取り除いたフライパンで、粒の小さな氷砂糖を焼き始める。同時に小鍋で砂糖を煮てカラメル液に仕立てた。

 やがて加熱された砂糖にカラメルを加えていくと、氷砂糖はコーヒーショップで置いていそうな琥珀色の焼き砂糖コーヒーシュガーに変わり、カンジはそれをいくつかの小山に分けた。


「師父は恐らく、この鉱物由来の風味は抑え、隠す方向で作られるだろう……師は料理に調和と滋味を重んじられるからな。なら、俺は逆を行く」


 一時間ほどの試行の挙句、レシピは一応の完成を見た。


「助かったよ、クロエ……」


「はい、お手伝い出来て良かったです。なんだか、想像もしなかった味になってびっくりですよ」


「君がそういうなら、案外師匠からだって一票もぎ取れるかもな」


「お師匠様には投票権はないですけどね」


 顔を見合わせてくすくすと笑う――だが、その直後にカンジは崩れるようにベンチに体を預け、深々と息を吐いた。


「すまない、俺は今から少しだけ仮眠をとる……宇宙航行と登山の疲れが、まだ取れてなかったらしい。カスミを抱え込んだのも、精神的にはだいぶ負担だった。この辺で限界だ……このベンチで横になるから、一時間経ったら起こしてくれ」


「……分かりました」


 クロエ自身もすでに眠かった。

 だが、妙なことを頼まれたと思いつつも、クロエは結局それを引き受けた。 



  * * * * *



〈カンジ、前方に見えるあれは何だ? どうも船の残骸に見えるんだが〉


 通信機から聞き慣れた声。目の前には視界の半分を占める小ぶりなガス惑星と、その奥から惑星を薄緑色に縁どって輝く、この星系の主星があった。


 カンジはリース業者から格安で借りた小型の採掘船マイナーに乗っていた。船は衛星軌道に浮かぶ氷塊の群の中を、周囲とほぼ同じ速度で飛んでいる。

 惑星の自転方向に合わせて軌道速度で十秒分先行した位置に、採掘船から分離した作業ポッドが航行している。あっちに乗り組んでいるのはリチャード・アルマナック。軍時代からの相棒で、そしてつい最近再会したばかりの友人だ――


 そこまで自分の状況を反芻したところで、カンジの意識が控えめにアラートを鳴らした。


 どうもおかしい。この採掘船のことは記憶にあるが、船内の照明や制御卓の配置は、こんな風だったろうか?

 このコクピットはむしろ、近年親しんでいた降下艇ホークビルに近い。それに――背中の皮膚が伝えてくるはずの座席の感触、視界の辺縁に見えるはずの、床や後方のハッチなどの存在が、ひどく曖昧だ。


(ははぁ……そうか、こりゃ夢だな?)

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?