「ちょっと待ってください」
クロエは流石に声を上げた。
「そんなの、勝負として成立しないんじゃないですか? 私たちが示し合わせてカンジさんに投票すれば、それで決まりますよね?」
「ほほう」
胡耀海は愉快そうに笑いながらクロエの方を振り向いた。
「お主らは、本気でそんな裁定をするというのかね?」
「……いえ。流石にしないとは思いますけど」
「なら何も問題はなかろう。なに、審査員にひいきする腹積もりがあろうがなかろうが、わしの料理と比べられて一票なりともぎ取れるなら、その時点で免許皆伝を認めてよいくらいのものよ」
(うわあ……)
クロエはさらにもう一段階強く、顔をしかめた。確かに力量差はそんなものかも知れないが、あまりにも尊大に過ぎはしないか。
過去に何があったかよくわからないが、カンジが気力を失っているのを奮起させるためというなら、そういう焚きつけ方もあり得るのだろうがそれにしても――
「……分かりました、いいでしょう。師父、喜んで試験に臨ませていただきます」
胡耀海の態度に言葉を詰まらせたクロエと入れ替わりに、カンジがここできっぱりと自分の意志を表明した。
「よくぞ申した」
胡耀海はもうそれだけで満足そうに微笑み、中身を満たした水甕を来た時と同様に、軽々と背負った。
「では戻ろう。まずはこの『スープ』の下処理を行い、飲めるようにするのだ。最も基本的な状態のものの味を、まずは知ってもらわねばな」
* * * * *
「船が海賊に追いかけられたときはもう、死ぬかと思いましたけど。やっぱり
カスミが斜面を尻で這うように降りて行きながら、目をキラキラさせてまくしたてる。
斜面が急すぎて眼下の眺めにすくみあがってしまい、立ったまま降りることができずにいるのだが――それはそれとして、カンジの「最終試験」の成り行きにはテンションが上がりっぱなしらしい。
「ほんっと、カスミさんってめげないですよね……」
呆れてため息が出るクロエだったが、カスミは特ダネの予感に感激してか、滑落の恐怖に震えてか、まぶたから止めどもなく液体を溢れさせていた。道理で目もキラキラするというものだ。
「やっぱりこう、グルメと言ったら料理対決じゃないですか! 古き良きニホンの伝統ですよね……カーカカカッ、一週間待ってください! おいしいよっ!! ってな感じで、あーもう楽しみ……ッ」
何かの創作物のキメ台詞らしきものを口にしながら、不細工な節足動物のように降りていく。
(あーあ。カスミさん、ちゃんとしてればそこそこ美人なのになー……)
「絶対に大好評間違いなしのいい記事が書けますね、これは! がんばるぞーっ!」
何にしてもあのバイタリティだけは尊敬に値する。するのだが。
斜面のひときわ急坂になった部分に差し掛かって、カスミはとうとう音を上げてしまい、ラウラに文字通り巻き取られて運ばれていった。
胡耀海の邸宅に戻り、
「出来たぞ。これはあの
「これが……!」
四人は目の前に置かれた椀を見つめた。
わずかに黄色味を帯びた、澄んだ液体をたたえた椀。その底にわずかな胡椒の砕片が沈んでいる。クロエもリチャードも、ラウラも、先の水たまりのそばでの一幕を思い出してしばし手を出せずにためらっていたが――
「えいっ……いただきまーすッ!」
カスミが真っ先にレンゲを手にして、その液体を掬った。口元に近づけて匂いを嗅ぐ。
「もう泥の匂いはしませんね……まあ当たり前ですか」
そのまま口に運んで、ず、と啜り舌の上で転がした。こくんと飲み干して息をつく。
「癖がなくて……意外と旨味というか、ある種のフォンのような濃厚さがありますね……へえ、あの水が。あんな泥水なのに――こんな風になるんだぁ……」
まんざらでもないという感じの表情でうなずくと、カスミは椀を手に取ってそのまま口元へ持って行った。
クロエも意を決してカスミに倣った。彼女の
(アミノ酸かどうかは分からないけど、多分なにかの有機酸、かな……うん、これは――)
「……少し煮詰めてから、冷やして飲むと真価が出そうな味ですね」
ほう、という感じの顔で胡耀海がクロエを見た。カンジも何やら込み入った表情を作りかけてこちらに向ける。
「なるほど、貴重な意見だな。参考にするがいい」
「……師父には、とっくに分かっておられるのでしょう?」
「さてな? お前もしっかり味わって、料理法を検討しておくことだぞ」
「……はい」
カンジも神妙な手つきでスープを味わう。しばらく目を閉じて黙考していたが、やがてフッと息をついて言った。
「これは、俺は自分の味付けが完成するまで食事は控えた方がよさそうです……師父、あとはお任せしても?」
「謙虚なことだ。よかろう、客人方のこの後の食事は、わしが責任を持とう……勝負は明日の夕食前。厨房の食材と調味料は、すべて自由に使ってよい。全力でかかってくるがいい」
「はい」
カンジはゆっくりした足取りで広間を出た。
胡耀海も再び厨房へ戻って行き、あとにはクロエたち四人が残された。広間の壁に掛けられた時計は午後四時、次の食事まではいくらか間がある。
ほぼ登山と言っても差し支えない昼間の「山歩き」の疲れが、クロエ自身にもまだ残っていた――カンジはどうだろうか? 味覚を研ぎ澄ませたいのは分かるが、疲れた体をさっきの点心だけで持たせられるものなのか。
少し迷った後で、クロエは席を立ちカンジが歩き去った方へと後を追って廊下へ出た。