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第36話 天然の驚異.2

 カンジは軽いめまいを覚えた。なるほど、数種のアミノ酸を含む水溶液や懸濁液なら、ある意味「だし汁」のようなものだ。然るべき処理を施せば文字通りのスープとして――



 ――ぶええええッ! まっず! クソまっず! 泥の味しかしませんよこれぇ!


 水辺から、カスミのものらしい酷く素っ頓狂で無作法な声。気づけば、胡耀海を囲む輪には明らかに一人分の空隙が出来ていた。


「ば、バカ者!!」


 胡耀海がその高齢者とも思えぬ機敏な動作で、あっという間に水辺へと走り込んだ。


「何ということをするのだ! 吐き出せ……いやまだ吐き出すな! お主の体液とその中の細胞や雑菌で水が汚染される! こっちだ、こっちへ来い!!」


「ふえええ」


 怒鳴られて半泣きになったカスミを引きずって、胡耀海が岸へ上がってくる。ラウラがそこへさっと駆け寄って、グラップラー・テイルでカスミをさらに拘束して空中に吊り上げた。


「検疫と防除を受けたとは言っても、人体を全くクリーンにすることなど不可能だ。だからこそわしも日々細心の注意を払って暮らしているというのに……」


「す、すみません、すみません!」


「それと、この水たまりプールの水は確かに栄養価が高い高分子化合物の溶液だが……それゆえに生で摂取するのは危険な側面もあるのだぞ」


「えっ」


「まだこの液中にあるすべてのアミノ酸やタンパク質の分子を解析、同定出来ているわけではないからな。人体を構成するのとは別種の、未知のものがあっても不思議ではない。そんなものを活性状態ナマのまま摂れば、容易に生態と融合して分離できなくなる。そうなれば……何が起きるかわからん」


「う、うえええ」


 カスミはさらに情けない顔になって、口の中の泥の味を取り除こうと必死で唾を吐いた。


「えっぷ……ぺっ! げっ、かぁっ! な、なんでそんなものをわざわざ、食べようとか思いつくんですかね……っ!?」


「……それはもちろん、わしが料理人だからだ。この世に存在する、食べることのできるものならば、そのすべてについて味を確かめ、可能な限りの料理法を編み出したいと願っている……この『スープ』は間違いなく、『食べられるもの』なのだから」




 カスミと胡耀海のやり取りをそばで見ていて、クロエは不思議な感銘を受けていた。文字通り泥まみれの体当たり、そもそも何から何まで準備が不足で詰めが甘く、軽率で不注意なこと限りない、としか言いようがないのだが。


 カスミ・砂岡にはそれを乗り越えて余りあるバイタリティと、物おじしないクソ度胸と、自らを顧みずに突っ込んでいく探求心がある――なぜかそう思えた。


「ほら、カスミさん。こっちの水で口をすすいで」


「あ、ありがとうございまふ」


 カスミは地面に下ろされ、渡されたカップの水を口に含みながらへこへことクロエに頭を下げていた。


「ここに限ったことではないですけれど、案内の人の許可なくそこらのものを手で触れたり、食べたりしちゃダメですよ。今度から気をつけてくださいね?」


「あ、はい。いやあ、子供のころ読んだ童話を思い出しましたね……なんかすっごい怪しいチョコレート工場とか見学してて子供が一人づつ消えてっちゃうやつとか……! 気をつけます」


 いまのところは目に見えるような悪影響は出ていないようだ。胡耀海の戒めもたぶん取り越し苦労の類なのだろうが――


「一応、壺天を出る時に、またあそこの検疫センターで精査をしてもらいましょうね」


「はぁい…それにしても、ひどい味でしたけど。胡耀海老師はあんなもので何を作るつもりなんでしょうか……」


 確かに、とクロエも首をかしげる。顔を見合わせる二人の後ろでは、カンジが胡耀海の指示に従って水甕に蓋をかぶせ、しっかりと密封する作業にかかっていた。



「カンジよ」


「はい、師父?」


「お主がこの前ここに来たのは、何年前だったかな……?」


 問われて、カンジはしばし宙を見上げた。


「あれから七年になります、師父。その節はお世話になりました」


「もうそんなになるか……ここで修業をしていたころからだと十三年経つのだな」


「はい」


「忘れてはおるまいが、お前の修業はまだ途中だ。最初の五年で、料理人として教えるだけのことはほぼすべてを教え、お前はそれをしっかりと身に着けたと思うが……最後の締めくくり、実地試験を課さずじまいになっておった。七年前にお前が戻ってきたときも、わしは結局試験を見送った。あの時のお前ははた目に見ても、ひどく精神を病んだ状態のようだったからな」


「ええ、そうでしたね……」


 カンジは七年前のことを思い出した。それは機動歩兵部隊に所属した日々の終わり。負傷とその療養を契機に、何とか除隊を認められて軍を離れた直後だ。

 戦場での負傷でカンジは顔面の神経と筋肉を損ない、何とか修復はできたものの自然な表情を作れなくなっていた。


 軍の病院では負傷した兵士に生命をとりとめさせ、任務遂行のための機能を回復させる。しかし、それ以上のことまではケアされない。対人のコミュニケーション能力や社会への適応力を損なってしまっても、あとは放り出されるだけのことだ。


 除隊したころのカンジには、人間の作る社会や組織の何もかもが煩わしく、疎ましいものになっていた。師父の行方をたどってこの壺天へたどり着いたのは、ただただ一時の安らぎを期待してだった。

 そんな彼に、師は何も言わずにただ日々の家事雑用を任せ、あとはするがままにさせてくれた。


「あの時は、本当にお世話になりました。おかげで私もどうにか回復して、今では店が持てるまでに――」


「いや」


 胡耀海は優しくも鋭い眼光でカンジを射抜いた。


「違うな。お前は立ち直ってなどおらん。あの時、お前の様子から何か酷い体験をしたということは読み取れていたが、わしはあえてこちらからはそれに触れなかった……だがわしには分かる。お前はまだ、実際にはその時から何も変えられてはおらんと見た。『店を持った』などというが、それはいったいどこにあるのだ?」


「……大行タイハン星系のステーション、『雲台14』です」


「なるほど。だがカンジよ、お前の腕を本気で振るうなら、太陽系ソル中央の一流店でも舞台としてはまだ不足よ。察するところ雲台の店とは、いわばお前の隠遁所であろう! そんな余裕がなぜあるのか知らんが、恐らく収益などもろくに上げてはいまい」


「う……」


 図星だった。カンジはナマコモドキのような高級食材を看板料理にしつつも、管理放棄が行われるような寂れた区画で、ID非登録の者まで含めた地域住民を相手にごく小さな商売をしてきたのだ。採算など度外視だった。


「……許せよ、カンジ。あの時のわしの対応は間違いだった。尻を蹴っ飛ばしてでも、お前自身が抱えている問題に真正面から立ち向かわせるべきだったのだ……だから、せめてここでその埋め合わせをしよう。まずはこの滞在中に、お前の最終試験を行う」


 胡耀海は、蓋をした原始生命スープのかめに手を置き、厳かに宣言した。


「この『スープ』を素材に料理を作り、わしと勝負をせよ。審査は、そちらのお嬢さん方とそこの男――」


 突然指差しと共に呼ばれて、クロエたちは「へっ!?」と目を白黒させた。


「お主ら四人に、やってもらうとしよう」


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