翌日。胡耀海に案内されて、一行は邸宅をあとにした。向かう先は邸宅のある場所から北西の、一段上がった台地の上らしい。
その場所までは曲がりくねった坂道がおよそ5キロ。ちょっとした山歩き、というにはいささかハードだった。
「いやあ、すみませんねえ……こんな立派な登山靴まで貸していただいちゃって!」
「……登山靴というか、まあクロエ用に買っておいた軍用シューズの予備なんだが……サイズが合って良かったな」
傾斜のきつい斜面を登りながら、カンジは不本意な気持ちを押し隠しきれないままカスミにそう言った。呆れたことに、彼女はあのサンダル以外に履物を持ってきていなかったのだ。
おまけに、彼女は太ってこそいないがおよそ運動や鍛錬とは縁のなさそうな、よく言えば伸びやかな――ありていに言えば甘やかされた身体をしていた。腕にも足にも筋肉がまるでついていない。
斜面には木材を埋め込んで、ごく簡単な階段状の足場を作ってある。だがカスミはいましも次の段へ向かって手を伸ばしつつ、続く全身を引き上げかねて額に汗を垂らしていた。カンジは意を決してカスミの手首を掴み、掛け声とともに上に引っ張り上げた。
「ひーっ、ありがとうございます……!」
「大丈夫か? 調理は戻ってからという手はずだ。無理しないで、下で待ってる方がよくないか……?」
カスミがキッと顔を振り上げてカンジに答えた。
「いえ、行きますよ! あの『中華の哲人』胡耀海、既知宇宙最高の料理人が、隠遁先の秘境の惑星で大切に守っている秘蔵の食材を振る舞ってくださるんです。それをただぬくぬくと、テーブルについて待ってるだけなんて、記事としてお話になりません! 意地でも現物を、野外にある状態で見なくては……!」
「その熱意と真摯さには、敬意を払うしかないな……仕方ない、頑張ってついてきてくれ」
カンジはため息をつきながら斜面の上の方をふり仰いだ。
一番先頭を行くのは師父だ。高齢にもかかわらず機敏かつ正確な動作で、岩のでっぱりや人工の段差を巧みにとらえて登っていく。そのリズミカルな動作の軽やかさに、カンジは舌を巻いた。
その後にラウラ、クロエ、リチャードの順に続く。カンジたちは
クロエは案外身軽に難なく登っていく。もともと身体能力は高いらしい。リチャードは一行の荷物の三分の一くらいを受け持って、危なげなくポーター役を務めている。とはいえ、二人もそれなりに疲労はある様子。
そしてラウラは――ちょっとした見ものだった。彼女は夜の間に一度クレイヴンに戻り、背中のテイルを操艦用とは別なものに換装してきていたようなのだ。
操艦用のコネクター・テイルよりも数段細いが、強靭なパワーを持ち軽快に動く長さ三メートル弱の軽合金製フレキシブルアーム。
それが岩を掴んでラウラ本体を引き上げ、あるいはバネのように働いて彼女をより高くジャンプさせる。その動きは人類の祖先にまだ随意に動く尾があったころ、ありふれたものだったかもしれない光景を思わせた。
「はぁあ……
感嘆の声を上げるリチャードへ、当のラウラが振り向く――
「恐れ入ります、ちなみにこれは個人戦闘用の『グラップラー・テイル』です……しかし、これを装備した私にしてからが、あの御老体にまるで追いつけないのですが」
――慣れと、体の使い方だ。お主らにはまだ、動きに無駄がある!
遥か上方から師の声。その背中には、セラミック製の
登攀開始から二時間ほどかけて、ようやく一行は斜面を登り切り、目的の台地へと手をかけた。「穴」の中心からの距離を基準にして幅一キロ、円周に沿って長さ四キロほどの棚状の地形だ。
その一角、穴の縁の断崖からは大きく距離を開けた岩盤の、中央やや東寄りに直径四百メートルほどのクレーターがあり、その底部には水たまりらしきものがあった。周囲の地形からすると形成されたのはかなり遠い過去、そして当初はクレーターのふちまで水を湛えていたようで、あきらかな浸食と堆積の痕が見て取れる。
辺りは荒涼とした風景。木や草花の一つもなく、こんなところに食材があるとも思えない。水たまりはうっすらと黄色く濁って、どこかトロリとした粘りを感じさせた。周辺から吹き込んだ細かな鉱物質の粉塵が、水に溶け込んでいるに違いなかった。
(……とすると、水底には粘土層が形成されている可能性があるか――まさか、師父は我々に
訝しむカンジをよそに、胡耀海は水甕とその中にしまわれていた柄杓を手にして、慎重な足取りで水辺へと降りて行く。
「し、師父。お一人では危のうございます……!」
「案ずるな、大丈夫だ」
胡耀海は水がめ一杯にその濁った水を掬い取ると、こぼさぬように気を使いながらカンジたちの方へと戻ってきた。
「あれ、魚とかいるわけじゃないんですね……なにか珍しいプランクトンとかでも?」
カスミが興味津々で水甕の中を覗き込む。
「いや、そうではない。この水は過去数万年にわたって、この岩棚で隔離されつつ有機分子を蓄え、水位の低下によって濃縮されてきたものだ。現在は何種類かの複雑なアミノ酸分子を含むようになっていてな……」
は? とその場にいた全員が困惑と驚嘆の声を上げた。
「そ、それってつまり……」
「『原始生命のスープ』だということですか!?」
「そんなことが……」
胡耀海は微笑しながら手を横に振った。
「厳密にはまだ、そう言える段階までは来ていない……少なくともRNA塩基などはまだ形成されておらんし、この状態で生命と呼ぶのも正確でないな。だが、だからこそ『異星生物保護法』――正式には『新規開拓天体における固有生物の保護及び利用に関わるオリオン腕包括条約』だったか? その網をすり抜けて、料理に使うことができる」
「料理に!?」