降下距離、およそ三千メートル。大きめの島嶼国家であればその国内最高峰に匹敵するであろう高度を、ゆっくりと降りたその終着点。
そこには果樹らしきものの林に囲まれた草地と、傍らを流れる小川が。そして生け垣を巡らせ泉水と
その小川にかかる石造りの小さなアーチ橋の欄干に、小柄な老人が一人、釣竿を手に糸を垂れている。
着陸したホークビルを真っ先に降りたカンジは、その老人を目にして撃たれたように立ちすくんだ。まだ二十メートルほどの距離があったが、恭しくその場にひざまずいて叩頭する。
「師父……お久しぶりでございます」
老人は釣り糸を垂れたまま微動だにしなかったが、ただ最小限の声だけを発してカンジに呼びかけた。
(大きな声をたてるでない、魚が逃げる……しばし待ちおれ)
「は」
やがて流れに浮かぶ小さなウキがかすかに動き、老人が竿をピクリとしならせた。十秒ほどの後、引き揚げられた釣り糸の先には、五十センチばかりの体長に長い胸鰭を持つ、金緑色の魚が躍っていた。
* * * * *
「今日お前が来ることは、分かっていた……朝方にふと思い立って、易を立ててな」
「そうなのですか」
「うむ。今日は大物が釣れて良かった。この魚、『
切り身を揚げてあんかけにしたものと湯引きした皮、それに透き通った白身の肉を薄く切って氷で洗いにしたものを、カンジと胡耀海は分担して食堂の丸テーブルに運んだ。
米から醸造した度の強い酒が磁器の酒盃に盛られ、乾杯が二度、三度と繰り返される。
「ふゎあああ……いいお酒ですねぇ。胡耀海老師ご本人の料理を味わえて、お話も聞けるなんて……これはいよいよ、グルメライターとしての私の伝説が始まりますかね……!」
「お前さん、さっき終ってなかったか?」
「終りませんよ! ここから始まるんですよ!」
リチャード相手にくだを巻くカスミの顔は、目じりから耳たぶからもう真っ赤だ。おそらくまともなインタビューなど、明日まではできたものではあるまい。
ラウラとクロエは落ち着いて、一口一口を味わいながら食べている。さすがに二人とも、上流階級とそれに連なる家の出だけになんとも行儀がよかった。
「これは確かに美味ですが、
「ほう」
「ちょっと、ラウラ!」
「塩だけの味付けで素揚げにしたものを食べてみたいですね」
ラウラの遠慮ない批評に、クロエは背筋に冷や汗をにじませた。表面の行儀はいいが、物言いとしては危険極まりない。だが胡耀海は機嫌を損ねた風もなく鷹揚に振る舞っていた。
「ははは、竜のお嬢さんはなかなか豪胆だな。だが俗世の権威など天衣無縫なる真人の前ではそんなものだ。わしとても例外ではないという事か!」
愉快そうに酒盃を干す胡耀海を見て安堵しつつ、カンジは何年振りかの深い安らぎも覚えていた。
(ああ、叶うことならいつまでもここに居たいほどだ。それに、もしかすると師父は、前にお会いした時よりも元気になられたのではないか……)
そんな感慨が湧いてくる。おそらくこの『壺天』の環境、穴の底で隔離された天然のビオトープのような場所での自給自足の生活が、師の健康に寄与しているのだろう。
この数年の気がかりと心配が半分がた払拭されて、カンジの心はいつになく軽かった。
「それで師父、先ほどご説明した話なのですが」
「ああ、『
つまり空振りか――まあ無理もない。件の便利屋が活動した時代よりも、師父の生まれた時期の方がずいぶん後なのだ。わずかな落胆を押し隠してカンジはもう一歩踏み込んだ。
「その……何か具体的な手がかりなどは、お耳には?」
「直接には知らんな。だが、お前たちの辿ろうとしている筋道は、恐らく正しい。食べ物の味というのは人間の記憶に強烈に結びつくものだ……マドレーヌと紅茶の香りで、幼少時に過ごした街を思い出した作家の逸話があったように――つまり、コープランド翁が分け与えてもらった幻の味覚とは、『まるいの』にまつわる、その開拓者たちの
「おお」
カンジの頭の中で、不思議な感動と無念がわき起こった。
(事実を追うことに精一杯で、そんな機微にまで思い至ることが、俺にはできていなかった……!)
「つまり、彼らはその雪の星に来る前に
「そうだ。だから、絞り込むならばまず、入植者が悲惨な運命をたどった星は、対象から外せ。それでかなり輪が狭められるはずだ」
――悲運を被った人々の想いは、また別の機会に解いてやるがいい。
何かの言い訳のようにそうつぶやくと、胡耀海はしばし無言になった。
「そうだ、明日もまだ滞在するなら、お前たちにもう一つ珍しいものを味わわせてやろう。少し山歩きになるから、準備をしておくといい」