「政略結婚のセッティングに、ハイスクールからの一方的な離籍ね……あれだ、まるで二十一世紀頃の創作ファンタジーみたいだな。つまりお前さんは
「私にっ、とっては、……全く笑い事じゃ……ないで――ゲホッ!」
廃線ターミナルの構内を、二つの人影が走る。
クロエは、ジョギングか何かのようなペースに見えるリチャードの走りを追うので精一杯。下手に喋ろうとすれば息が切れ、挙句は乾燥した冷たい空気に咳き込む体たらくだ。
周囲は暗く、灯りといえばリチャードが手にした小型のフラッシュライトが一本きりだが、幸い二十メートルほどの間隔で点検用の標識灯が点ってはいた。
「あったぞ」
クロエの数メートル前方で、リチャードが低い声で告げた。彼のすぐそば、何か箱型をした物体がレールの上の薄暗がりにうずくまっている。
「えっと、これは?」
「……保線用の自走トロッコだな。この辺りのレールにリニア用の電力は来てないようだが、こいつは規格の合うバッテリーさえあれば、ある程度動かすことはできるんだ」
苦労して何とか車台の上に這い上がり、内部の備品を確認。いかにもな稲妻型のマークが記された箱型の物体に、数本のケーブルが接続されていた。
「よし、あるにはあった。生きてるといいんだが――」
リチャードがトロッコの簡素な制御盤をチェックした。いくつかのインジケーターが煌々と灯り、周囲がわずかに明るさを増す。
「バッテリーの残量はある。嬢ちゃん、お前さんツイてるぞ。これがダメなら最悪、送電グリッドのシステムに侵入してここの廃路線に電力をバイパスする手もあったが――」
「冗談でしょ! 流石にそれはないわ……」
クロエは怖気を振るった。公共インフラシステムへの不正侵入と改竄は、露見すれば三年は食らい込むことになる明白な犯罪だ。
「あとは、と……」
リチャードがふと、遠くを見るような顔をした。
「まず大丈夫だとは思うが、どこかの区画で気密が破れていないとも限らない。作業用の気密服も捜しておこうか」
「そんな可能性もあるんですか……!」
「おう。何せ、老朽ステーションだからなあ。管理放棄される区画は、だいたい二十年以内には崩壊して立ち入り不可能になる。デブリになる前に取り壊せればまだいい方だ」
「ぜ、絶対探し出しましょう!」
聞いただけで窒息しそうな気分がした。真空暴露は宇宙時代にあって、最もリアリティを感じさせる「非業の死」のイメージだ。
時間のロスは痛かったが、クロエたちは保線作業員用の待機室を見つけてロッカーを漁り、何とか二人分の作業用気密服を確保することができた。酸素ボンベこそないが、内蔵した生命維持装置は気圧センサーと連動して、非常時に五分間の酸素供給が可能になっている。
「よし。ヘルメット周りの気密シールは大丈夫だ。俺の方も頼む」
「はい、リチャードさんの方もこれで大丈夫だと思います。行きましょう」
ごとり、と音を立ててトロッコが動き出す。リニアラインの運行速度には比べるべくもないが、その代わりに周囲から隠蔽された路線にいれば発見されにくいはず。暗がりの中を、クロエとリチャードは警戒しながら進んだ。
「これ、まっすぐ行くと宇宙港まで行けますかね……?」
「んー。宇宙港の引き込み線に直結してないから、遅くともギリギリ手前で本線に進入しなけりゃならんがな――なにか考えがあるのか?」
リチャードが興味ありげに訊き返す。クロエは慌てて胸の前で手を振った
「いえ。ホークビルで
「何だ。カンジのやつ、そんなことまで……? あいつ、嬢ちゃんを後釜にすえて、俺をクビにするつもりじゃあるまいな」
何とも言えない渋い顔を作って見せた後、リチャードは一転して愉快そうに笑った。
その後、クロエはアウナケア島に降りて繰り広げた先日のナマコモドキ漁について、問われるままに語った。
「いやもう、本気で死ぬかと思いましたよ……ネットの固縛ワイヤーを切りに行った時とか、海に落ちても不思議じゃなかったですし」
「いやはや、ご苦労さん! そうか、お前さんもう、『
ねぎらいの言葉をかけたあとで、リチャードはクロエをしげしげと見つめて言った。
「だけどさ、ホントは他に目指してるものがあるんだろ? そんな顔してるぜ」
「ええ?」
クロエはぎょっとしてリチャードを見返した。
「なんでわかるんですか、そんなこと」
「そりゃあ。それだけ恵まれた裕福な生まれ育ちで、別に何も目標とか野心とかなかったんなら、いくら政略結婚だと言っても相手の顔ぐらいは見るだろ」
そういうものだろうか、とちょっと考える。
「まあ、目標があるのは当たってますけど……別に自分に何もなくても、取引のタネでくっつけられる
「それもそうか。だがそれなら、なおさらこんなところで挫けたり諦めたりしてるわけにはいかんよな」
「そうですね。まずはなんとか、向こうが手出しできない場所から父に連絡を取れないかと思うんですけど。あと、カンジさんにも」
「ふむ……」
リチャードは少し考えこんで口を開いた。
「それならやっぱり、宇宙港へ向かうのが正解だろう。ホークビルに乗り込んで船内の通信機を使えば、カンジに直通でつなげられる」
「あ、いいですね。『決裂したら宇宙の彼方へ飛んで行っちゃうぞ』って脅せば、父だって」
「……やるなよ?」
「昔読んだ小説のトラウマがよみがえる」とかなんとか、よくわからない注釈付きで釘を刺されたが、いざという時に交渉をテーブルごとひっくりかえせる手札はあって悪くない。
「言うてホークビルで星系外に出るのは無理なんだが」
「ええまあ、それは分かってますけどね――」
言葉を継ごうとして、ふと気づく。前方のカーブ部分の壁がぼんやりと明るく照らされている。
このトロッコにも前照灯はあるが、あんな角度で照らすものではない。それに――
「リチャードさん! 追っ手、来てます!」
不規則に大きさを揺らがせる前方の光の輪の中には、大きな人型の影が投げかけられていた。クロエが右手を上げると影も同じように手を上げる。後ろから照らされているのだ。
「クソ! あいつら、どっかから保線点検用の
後ろを振り向いたリチャードが追っ手の詳細を見極める。恐らく別の保線用ターミナルから持ち出したのだろう。
「土地勘がなくても、公開されてる情報は検索できますからねえ……」
「まずいな、ありゃあ車体が華奢なぶん軽い。こっちよりスピードが出そうだ」
――そこの男! トロッコを停めて速やかに投降しろ! 足掻いてもこのステーションからは出られんぞ!
金属的な反響音をともなった警告の声に、クロエもちらりと後ろを振り向いた。標識灯のグリーンの光で断続的に照らされて、細い金属フレームで出来た軌道自転車のシルエットが明滅を繰り返す。乗員は二人ほど、どうやら先ほどの一団から人員を分散させたらしい。
「ちょっとだけ甘い期待をしたが、どうやら向こうも人力じゃないらしい。追いつかれるのは時間の問題だ」
人力でペダルを漕いでいるなら、ちょっと見たかったかもしれない。世の中は流石に厳しい。
「彼らの武器、多分有線スタンガンですね。父の会社の製品」
「ははあ。この気密服じゃあ防げんな。どうすっか」
バッテリー残量は気になったが捕まるわけにはいかない。クロエはトロッコのアクセルペダルを踏みこんだ。気休め程度にしか増速しないが、数秒の差が運命を分けることもある。
前方に電光掲示板が見えた。手前には分岐点と信号機、分岐先の一方には光に照らされた大きなトンネルが見える。その先が本線らしい。信号機の表示は「直進」。
そして電光掲示板には――
「Danger!:Front Section,airtightness failure(危険!:この先、与圧不良)」の文字が躍っていた。最悪のビンゴだ。
「うわ! 減速だ、減速しろ! 信号が『右折』になってから進まないと……!」
リチャードが血相を変えてクロエに指示を飛ばした。まともな人間なら至極当然の判断だ。
だが、クロエはそれを千載一遇のチャンスと捉えていた。
「いや、このまま進みます! あいつらは気密服着けてないし、あの掲示見たらまっすぐ追っては来れないはず!」
「クソッタレが! こいつ真性のブチ壊れかよ……将来何になる気なんだか!」
いつ設けられたものかわからないが、信号の先には自動開閉式と思しいエアロックが見えた。車輛の接近をセンサーで検知し、通過後に閉鎖する仕組みらしい。
「こんな手の込んだエアロックつけるくらいなら、さっさと修理すりゃいいものを……」
「費用がかさむって事でしょ。 ……この先の与圧なし区画、多分長いわね」
「マジかよ……」
ばっくりと開いた隔壁の向こうへと、トロッコが滑り込む。後方で隔壁が再閉鎖される直前、ずっと後ろで悲鳴と急ブレーキの音がした。
「……」
お互いに無言。
顔が引きつる。クロエからは今見えないが、リチャードの方も多分同じだろう。この先の区画が長いなら止まるわけにもいかないし、見渡す限りトンネルのどこにも、迂回できそうな脇道はない。
排気が行われて気圧が下がり、気密服が閉鎖されて生命維持装置が働き始めた。
「見ろ、エアロックが開く」
前方にはまた電光掲示板。そこに「
「三秒だってよ」
カウントダウン。
二秒。
一秒。
排気音とともに開いた隔壁の向こうには――星が見えた。
「うっそ!」
「素通しかよ!」
二人そろって悲鳴を上げた。
目測にして四百メートルほどだろうか。そこにあるべきトンネルとその周辺区画の構造物がごっそりと撤去され、レールとそれを支える基礎部分だけが、虚空にかかった一筋の橋となっている。その先端は、さらに前方の外壁ブロックの中へ延びていた。
「……たぶん、隕石かデブリが衝突して駄目になった区画だな。最低限の連絡のためにレールだけ残して撤去したんだろう。わざわざエアロックを設けたことにも説明がつくが……ここを渡って行けと?」
「止まったら多分死ぬわね。バッテリーが切れないように祈って!」
クロエは流石にレバーを減速に入れた。慣性で走る間にバッテリーを充電する目的もあるが、何かレールにひずみでもあれば、速度次第では車台がジャンプしてコースアウトしかねないからだ。
「クソッタレが! こんな嫌なローラーコースターは、想像したこともなかったぜ……!」
「途中で途切れてないだけマシってとこね!」
気丈に振る舞ってはいるが、実のところヤケクソだ。心臓の鼓動が頭の中一杯にこだまする。単に緊張しているだけか、或いはもう酸素が足りなくなっているのか――確認する勇気はもはや逆さにしても出てこない。
「止まるなよ! 絶対止まるなよ!」
「デカい体で不用意に動かないで! 余計なモーメント加えたくない!」
実際にかかった時間は二分もなかっただろう。だがクロエにはそれが永遠にも感じられた。
ようやく目の前に外壁ブロックの断面が迫り、隔壁が開いてトロッコがエアロックに吸い込まれたとき。クロエとリチャードはその瞬間、どちらからともなくお互いを堅く抱きしめていた。