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第16話 巻き込まれる強面.1

「――冗談じゃないわ!」


 混乱と焦燥に塗りつぶされた頭を必死に動かしながら、クロエは表通りに向かって駆けた。こんなところで捕まるわけにいくものか。

 あと一か月で端末の代替えが届く。あれさえ受け取って、各種設定を元通りに済ませてしまえば。人類の文明圏である限り、このオリオン渦状腕のどこへでも行けるはずなのだ。



 クロエの銀行口座は彼女が個人で開設したもの。

 たとえ父でも勝手に接収したり取引を差し止めたりすることはできないし、十六歳から始めた株式投資の運用益は、すでに中堅以上の企業人が受け取る給与に匹敵している。つまり自分一人の生活はどうとでもなる。


 だが今捕まってしまえば、父は二度とクロエに行動の自由を与えてくれないだろう。



「……だいたい今どきさぁ、グループ内の結束を閨閥で補強するとか! そのために……娘を手駒に使うとかさ!」



 時代錯誤も甚だしい、とクロエは歯噛みをする思いだった。もちろん人間の社会が概ね男と女で成り立っていて、交接して自然分娩で子孫を儲けるのがいまだ主流である以上、それは別段間違いではないのだろうとも理解はできる。

 ことにクロエの属するような富裕層においては、そうした旧時代然とした伝統的価値観が特権意識と一体化して温存されてもいるのだが――



嫌なんだっての……!」



 大学に進んで学びたいことがあったのに、有無を言わさずハイスクールを除籍させられた。そのあと実家で家庭教師についたのは家政学と秘書学の学位をもつ才媛だったが、それらの学科はそもそもクロエが望む道ではない。


 結婚相手に予定された重役の御曹司がどんな人間かは興味もなかったが、いずれにしてもクロエを理解してくれるとは思えないのだ。



「ああっ、やだやだ、もう追いついてきてる!!」



 後方に硬質な靴底の足音を感じて、こちらも速度を上げる――こんなペースで長く走れる筈もないが、果たしてどこまで息が続くものか?


 後ろに気を取られるあまり前方への警戒がお留守になっていたらしく、唐突に体がなにか重みと弾力のある物体にぶつかり、進路を阻まれた。衝撃で一瞬、呼吸がつっかえる



「げッふ――」


「……痛ッてえな、おい!」



 低く圧のある、男の声が降ってきた。どうやら通行人に衝突したらしいが、幸いにどちらも怪我はないらしい。済みません、と言い置いて走り去ろうとしたが、むんずと手首を掴まれた。



「待たんか、こら」



 握り方は柔らかいがその実、もの凄い力でホールドされている。振りほどけない。足音はどんどん近づいてくる。

 万事休すだ――どうしよう。もはやこれまで、と目をつむりかけたところに、その人物が何やら様子を変えた。



「ん……おい、このブルゾンは」



 ブルゾンがどうしたと? いぶかるクロエに向かって、男が言葉を継いだ。



「もしかして、うちの従業員……なのか?」


「え?」



 予期しようのない言葉に一瞬混乱する。クロエは体ごと男に向き直ると、相手の全身を視界に収めた。



 見たところではカンジよりわずかに低い身長、肩幅の広い体をグレーの作業服に包んだ頑健そうな男。短く刈り込んだ金髪に大きな口は、本来なら精悍な印象を与えるのだろうが、暗所で長く過ごしたかのような生白い肌と微妙にたるんだ頬周りの肉づきには、どこかを思わせる印象があった。



「あー、そうか。カンジの奴……うん、まあそうだろなあ」



 何やら一人で納得する様子だが、何を言いたいのかクロエにはよくわからない。とはいえ、どうやら店の関係者なのか?



 ――その女性から手を離せ。


「あン?」


 いつのまにかクロエと男は、追いついてきたOSSの黒服たちに包囲されつつあった。作業服の男はポン、と音がしそうな動きでクロエの手を離すと、黒服たちをじろりとめ回した。



「クロエ様、我々とご同道願います――そこの男、お前に用はない。速やかに立ち去れ」



 OSSのリーダーがゆっくり近づいてくる。周囲の黒服たちはスーツの下から取り出した武器らしきものを傍らの作業服の男に向けながら、フォーメーションを変えて周辺の路地や曲がり角の入り口へと動きつつあった。逃走経路を塞ぎにかかっているようだ。



「なあ。お前さん、こいつらに追われてんのか?」



 男がチラリとクロエの方を振り向き、次いで彼らの武器に視線を据えた。彼の質問をOSSリーダーが引き取って、機械を思わせる無機質な口調で答えた。



「……これは合法的な要人保護のオペレーションだ。当局の承認も得ている」



「わ、私は……」



 何か言い返したいが、適当な言葉が浮かんでこない。だが必死の思いで男を見上げ、その腕にすがった瞬間。

 自分でも思いがけない言葉が唇から滑り出た。



「助けて。私は『雲台ここ』に居たい」


「OK」



 短くそう答えると、男は空いた右手でポーチを探り、何かを取り出した。





 短い叫びと腕を振り上げる動き。クロエがそれに反応して目をつぶり、とっさに両の拳で顔を覆ったのとほぼ同時。カメラのフラッシュを百個も同時に焚いたような激しい光が通りを満たした。


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