* * * * *
一方、おおよそ一カ月前のこと――
「あークソ、ツイてねえよなあ」
ヒュウは不法占拠し続けている空き家の片隅、ベッド代わりの破れたソファの上で寝返りを打った。テーブル代わりに部屋の真ん中に置かれた空コンテナの上には、なんとも場違いなパステルカラーの情報端末が放り出されたままになっている。
ヒュウ・ホーカーロットは雲台14生まれ、しがないID非登録居住者だ。1G居住区でも外れにある、整備と管理を放棄された古い街区に住み着いて、配給の割り当てと時々発生する日雇い仕事の手間賃、それと置き引きや寸借詐欺といった、ケチな悪事のアガりで食っていた。
彼がいま怨嗟の声と視線を向けている対象は、一カ月前に旅行者から強奪した、件の端末だ。
見るからに高価そうなハイエンド・モデルと見えたし、接続元を偽装してもぐり込んだ星間情報クラウドのアーカイブ検索でも、一年ばかりの型落ち品ながら中古市場価格で二十万マルス近かった。
おまけに散々苦労して画面ロックの認証コードを割った結果、ヒュウを小躍りさせたことにこの端末はメガバンクの個人口座に紐づけられ、あらかたの大手信販会社で決済に利用できるものだった――彼の犯行からわずか二十分三十五秒にして、すべての決済と個人認証が雲台の星系行政府と端末の
ぬか喜びのその事実を知った時、彼は文字通りの意味で膝から床に崩れ落ちていた。いかなる手品を使えばそんな早業が可能だったのか?
彼にはさっぱり分からないが、もはや口座からの不正引き出しはおろか、故売市場に本体を流すこともかなわないだろう。
雲台におけるID非登録者は、開拓計画の長年にわたる惰性とひずみから生まれた必要悪、つぶしの効く調整弁だ。
しばしば臨時に発生する非正規労働の需要をみたすために便利にこき使われ、ほとんどの行政サービスから疎外されている代わりに、納税を含めた一切の義務からも
十全な管理が行き届かなくなったこのステーションの経済から、ザルで水を汲むように零れ落ちる余り物の現金と物資で、どうにか生きていくことができるが、何か不都合が起きれば真っ先に切り捨てられるのも彼らだ。
そしていったん犯罪者として当局に身柄を押さえられれば、それはそれは酷い扱いを受けるわけで――
「……冗談じゃねえぜ。権利も自由も制限された仮IDで縛られて、どっかのクソ寒い資源衛星に送り込まれるとか、そういうのは……」
すべからく、悪事は割に合わないということだ。
とはいえ彼の懐は今、過去最悪に寒い。まともな食事にありついた一番新しい記憶は、一昨日の朝までさかのぼる。何とかこの役立たずのキラキラした板っきれをタネに、まとまったマルスの
電源を入れた端末を弄り回しているうちに、ヒュウの頭にふっと別の新しいアイデアが浮かんだ。
(こいつの持ち主はあの旅行者の嬢ちゃんだ……どう考えてもどっかのご令嬢、なぜこんな場末にのこのこやってきたのか知らんが……所在が知れるなら銭を出す、ってやつは、多分間違いなくいるよな?)
間に何人か、情報屋や裏の顔役を挟んで取り分はへずられることだろうが――ゼロよりはいい。ヒュウは部屋の隅にある旧式のラップトップ型端末をテーブルの上に移動させ、指をぽきぽきとほぐしながら電源を入れたのだった。
* * * * *
「あれ?」
店に向かって帰路を辿る途中――二カ月前の災難を教訓に、なるだけ表通りの明るい所を歩くよう心掛けているのだが――クロエは視界の片隅に違和感のあるものを捉えて足を止めた。
経年劣化でドットの一部が欠けた広報用街頭モニターに、妙なものが映っている。白い外装が目にもまばゆい、優美なフォルムの大型宇宙船。それが宇宙港の大型着陸パッドに鎮座していた。
「アデレイド級クリッパー……よね、アレ」
全長二百二十メートル。マルチモード核融合炉四基を搭載して大出力の慣性制御装置をドライブする、個人で所有可能な民間仕様のものとしては現在最大級の速度と輸送力、そして
もちろん調達価格も最高クラス。そうそうどこにでもある、というものではない。所属が気になってモニタに目を凝らしたが、口惜しいことに画面は直ぐに、宇宙港のコンコース内にある定点カメラからの映像に切り替わった。
どうということもない雑踏を歩く技術職と思しき男たちや、最低限の荷物を携えた旅慣れた風体の旅行者がぞろぞろと歩いている。だがクロエの網膜と脳裏には、今見た白い船体が鮮明に焼きついたままだった。
見間違いはあり得ない。何となれば――
(……父さんの社用ヨットが確かあの機種……! いやでも、まさかとは思うけど)
雲台に居座って二カ月。
やむを得ない仕儀とはいえ、流石に長居をし過ぎた気がする。あれ以来富裕層らしき客も何組か訪れたし、どこから話が洩れ伝わっていないとも限らない。
薄氷を踏む思いで裏通りへ戻り、「饕餮」の佇むブロックへの曲がり角までやってくる。恐る恐る店の方を覗き込むと――そこには、一目見てそれと知れる、ダークスーツ姿の屈強な男たちが佇んでいた。襟に光る銀色のバッジは、この距離からでも見誤りようがない。 父がグループ内会社のCEOとして役員を務める星間複合企業体「オリオン・コーポレーションズ」の、特設警備部隊であるO.S.S.(ORION SPECIAL SECURITY)のものだ。
(や、やっぱり!)
父の手がここまで追い付いてきた――クロエは反射的に頭を引っ込め壁に隠れた。だがとっさに取ったその行動は、プロの警護担当者の注意を引くには十分に不自然なものだった。
「ターゲットの接近を目視確認。確保します!」
リーダー格らしい一人がこちらを窺いながら、頭部につけたヘッドセットのマイクを操作してどこかに報告をする様子。配下の黒服たちが小走りにこちらへやってくるのを察知して、クロエは脱兎のごとくその場を走り去った――