帰投後、カンジからはクロエに真摯な謝罪があった。転覆の恐れがあるような嵐への対処について、クロエへのレクチャーが不十分だったことと、漁協が救援に来てくれる可能性について、伝えていなかったことについてだ。
クロエはカンジをなじるでもなく、比較的冷静にそれを受け入れた。
「まあ、とにかく二人とも無事でしたし……あの運用法については、変にやり方だけ知ってたら、私一人でフロート取り外しに手を出したかもしれません。そうしたら、本当に取り返しのつかないことになった可能性もありますからね」
ベストの方法があってもそのための条件が整わない――
そんな時は次善の方法に甘んじるしかないことを、クロエはこれまでの旅の間に、おぼろげながらも学んでいた。
* * * * *
「よし。ご苦労さん、あとは俺がやるから、クロエは上がっていいぞ」
「あ、はーい。店長も、お疲れ様でした」
ナマコモドキ漁から三週間ほどが過ぎた。「雲台14」に戻った二人は、当初は細々とだったが、ともかく「
クロエの業務は接客と仕込みの補助。最初は戸惑うことばかりだったが、なんとか仕事に慣れてきた実感がある。客足も次第に戻ってきたところだ。クロエの親しみやすい美貌と快活な印象は、店の売り上げに良い影響を与えていた。
地球時間で言えばおおよそ夜の八時、「
店の裏手にある通用口の方で、電気自動車の駆動音が聞こえてすぐに止まった。インタホンの音に反応して、カンジがそちらへ向かう。
「何かしら……気を付けてくださいよ、この辺は実際、治安よくないみたいですから」
「いや、大丈夫だ。この足音はよく知ってる。
ドアのところでサインやら受取人確認やらの、お決まりのやり取り。
ことが済むと、カンジは台車に載せたかなり大きめの保冷パッケージを、ごろごろと押して戻ってきた。
「何です、その荷物……?」
カンジが例によって、下手くそなウインクをよこす。
「アウナケア漁協からだ。ナマコモドキが干し上がったのさ」
「お」
二人でわいわい騒ぎながらパッケージを開封する。中にはからからに乾燥した、人の前腕部ほどの長さと太さを持つ、黒ずんだ塊が呆れるほど大量に入っていた。
「いい出来だ! それにいつもより早い。地表はしばらく前に乾期に入ったはずだが、天候は申し分なかったらしいな……!」
頬ずりせんばかりの仕草で、カンジはその貴重な
「気が気じゃなかったですねえ。せっかく採ったナマコモドキを現地に置いていく、って聞いたときはどうしたのかって思いましたよ」
「そりゃあ当然だ。あそこで潮風を受けながら、『大行』の光をじかに浴びるからこそ、この干しナマコが最高の仕上がりになるんだ。
「そういうものなんですかねえ……」
クロエにとっては、まだ心底理解するというところまで行かない観念だったが、まず本当のことなのだろう。
「そういうものさ……よし、今夜からこいつを戻しておこう。七日目には最高のオイスター炒めが作れるようになる。切り干しだから形はおかしいが、品質には影響ない。これだけあればそうだな、ざっと一年分以上のストックだ」
そういえば、とクロエは思いを巡らせた。たしかナマコの内臓も、どこかの文化では美味として珍重するものだと聞く――
「内臓は二匹とも、吐き出しちゃったってことでしたよね。惜しかったですね……」
だがカンジはそれを聞くと、ひくひくと肩を震わせて笑った。
「はは……内臓、か。いやまあ、知らんのは無理もないが、言っただろう……? 別種の生物だ、と」
「ええ、なんかそんなこと言ってましたね、カンジさん」
「ナマコの内臓は珍味だが、ナマコモドキのは箸にも棒にもかからん代物だよ……捨てるしかないんだ、海中のマグネシウムとか、そういう余計なミネラルを過剰に蓄積しててね。人間が食えるものじゃない……残念ながら、ね」
なにがおかしいのか、なおも際限なく肩を震わせるカンジを、クロエは何とも言えない気分でしばし見つめるしかなかった。
さて満願の七日目を迎え、さらにその翌日。店に入った男女二人連れの旅行者が、フロアにいたクロエを手招きした。
「はーい、ご注文はお決まりですか」
「うん、『雲台ナマコモドキのオイスターソース炒め』はできるかな? 『天の川ニュースネットワーク』の記事で読んで以来、ずっと憧れててね」
クロエは思わず吹き出しそうになったが、思いっきりの笑顔を作ってその場を切り抜けた。
「できますよ……! ちょうど、今年仕入れたばかりのナマコモドキが、戻し終わったところですから……お客様のご注文が、記念すべきシーズン一食めです!」
「そりゃあ嬉しいね! じゃあ私と、彼女にも同じものを」
「ありがとうございます。セットになさいますと、炒飯とスープに、
「うん、うん! じゃあセットで」
「あとすみません、食前酒に、こちらの
「かしこまりました!」
客はラフな服装だが、身なりは清潔で金のかかったものだと、クロエには分かる。おそらくどこかの管理職以上か、あるいは富豪が、お忍びで来ているのに違いない。
(あー、私の素性がばれないようにしないとなあ……)
「では、しばらくお待ちくださいませ」
仕込まれたとおりに折り目正しく一礼すると、クロエは厨房へオーダーを伝えに戻った。
* * * * *
陶然とした表情で、客は食事を進めている。オイスター炒めはすでに三分の一ほどが彼の腹に収まり、額には体内を素通りしてきたかのように、てらてらと脂が浮いて光っていた。酒のせいもあって薄っすらと紅潮した顔色が、実に幸せそうに見える。
男性客が再びクロエを手招きした。
「いやあ、これは素晴らしい……とろけるような舌触りといい、ぷるぷるの歯触りといい……何とも言えないね。それにこのソースの味! これはただのオイスターソースじゃないな? 牡蠣の他にもなにか魚介と、それに八角が入っていることまでは分かるが。なあ君、料理長と話ができると嬉しいんだが」
「ねえ、あんまり詮索すると悪いんじゃない?」
客の女性が心配そうにたしなめる。クロエは内心で口笛を吹いた。
(ふふ、わからないでしょうねえ……私も、昨晩賄いで食べたときは、カンジさんに聞くまで全然見当もつかなかったし)
「料理長は他のお客様の注文対応でお相手できませんし、ソースは秘伝なのですが……材料のうち一つだけは、お教えしても良いと許可を受けていますよ」
「おおっ!?」
客の男が全身に喜色を表した。
「この味の秘密に一歩でも近づけるならこの上ない幸せだよ……い、一体何が入っているのかな」
やはり男はかなりの食通らしい。クロエはすまし顔を作ってその問いに答えた。
「他所では使っていないと思いますが、食材としては本来ありふれたものですよ……中華料理でよく使われる陳皮に替えて、このソースには日本産柚子のピールを使っています。独得の芳香に加えてかすかな苦みが、全体をより高雅に整えるのだとか」
「おお……」
もう死んでもいい、などと物騒な讃辞を口にする男性客に、連れの女性は厳しい視線を送ってたしなめた。
「すみませんね、ホントに……この人ったら美味しいもののこととなると見境がなくて……まあそこが好きなんだけど。ふふ」
「ごちそうさま」って私が言うセリフじゃないと思うんだけどなあ――クロエはそんなことを考えながら次の注文を取りに彼らのテーブルを離れた。
ふと、昨晩の賄いの味が口中によみがえる。今客に出したものに倍する量の、ぷりっぷりのナマコを同じソースで整え、しゃっきりと油通しされた青菜の歯ごたえも官能的な一皿。
あの客には気の毒だが、クロエが味わったナマコモドキには、たとえ千金を積もうとも他人が決して味わうことのできない滋味があった。
食べるほどによみがえって体にあふれたのは、恒星「大行」の輝きを受けながら浴びた潮風の清冽さと、雨に煙る海で掴んだ生命の実感と手ごたえ。そして、未知の明日へ向かう勇気。
それは、ただの料理店の客としては絶対に味わえない、最高のソースだったのだとクロエには思えた。