* * * * *
急激に激しさを増した風雨の中で、クロエは艇を維持するために必死で手を尽くしていた。
まず上面の気密ルーフを閉鎖し、雨水の侵入を防いだ。次は上方へ伸ばした通信アンテナのロッドを収納しなければ。
「畳んじゃうと漁協と連絡が取れなくなるけど、落雷にあったり折れたりするよりましよね、ね……?」
通信できたところで、この嵐の中では漁師たちも動けまい。いち早く嵐を察知できていれば港へ帰投しただろうが、現実にはおそらく、錨を下ろし不要な外装品を収納して、運を天に任せるのが精いっぱいというところだろうか。
ロッドの収納のためいったんコクピットへ駆け戻り、併せてカンジへ有線での通信を試みる。
「ネットはまだですか!? そろそろ投下しないと、こっちは……」
実際のところ、グリルランナーごとカンジを海底へ吊り下ろしているのは、艇のためにはプラスに作用していると言っていい。錨としてもある程度作用するからだ。出来ればそこにネットも加えられれば良いのだが。
ややあって応答が返ってきた。
〈無力化できた……! ネットを下ろしてくれ〉
「やっと……! 分かりました、でも、下ろした後もしばらく待機しててください。上は今、嵐の最中なので!」
むしろ、今戻ってきてもらっても微妙なのだ。グリルランナーの収容時に積荷ブロック内に波が伝播すれば、庫内で暴れたグリルランナーの機体がぶつかって、ハンガー・フレームを手ひどく破損する可能性もある。クロエにはそのさまがありありと想像できた。
〈分かった……可能な限り粘ってみる。そちらも無理はするなよ〉
「無理するなったって、今できることは全部『無理』ばっかりですけどね……!」
「船外積載物・固縛開放」と書かれたステッカーの隣にある、シンプルな形のレバーを勢いよく引く。炸薬入りの固定ピンが弾けて、ネットは海中へ没し、吊り下げケーブルに沿って海底へ向かって――行かなかった。
代わりに、船体にガクンとおかしな力が加わり揺れる。制御卓から耳障りなアラート音が響く。
「うそッ、何でェ!?」
モニターに目を走らせると、「積載物に異常あり、目視確認を要す」というメッセージが表示されている。
「目視確認って……こんな風雨の中をぉ?」
それでも、やるしかない。べそをかきながら側面ハッチを開き、後部の積載部分まで伝い歩きを試みる。吊り下げ用フックや外装品のステー、メンテナンスハッチのハンドルを頼りに、一歩また一歩。
右足が足場を捉えそこね、体が下へ滑る。辛うじてハンドルを握っていた左肩にひどい衝撃が加わって悲鳴を上げた。船体は濡れ、滑らかな形状がかえって仇を為す。命綱とハーネスをつけていなければ、そのまま海中へ落下していたところだ。
ようやく艇尾へたどり着くと、ネットは片側がまだ中途半端に固縛されたまま、斜めに傾いてその一部を波に洗われていた。
クロエはワイヤーカッターを持った手を必死で伸ばし、三回ほど噛み付かせてようやく索を切断した。どこか生き物のような不気味さを伴った動きで、巻かれたままのネットはホークビルの船体を伝って滑り落ちて行った。
「えっと、次はアンテナ、アンテナ!」
作業を急ごうと気が焦る。艇内に戻って床に足を着いた瞬間、波にあおられて床がぐっと持ち上がった――
「あ、うわッ……たっ!」
濡れた靴底が、床をずるっと滑ってあらぬ方向へ。滑り止めのパターンを施した
クロエは尻もちを搗く姿勢で床の上に崩れた。
「痛ったぁ……!」
そこへまた波が艇をもみくちゃにして、彼女は床の上を左舷から右舷までゴロゴロと転がされた。
たまらず目をつむりかけたが、瞬間、顔面に迫る補助シートの支柱が目に入った。
「ひええッ!?」
間一髪で腕を突っ張り、激突をまぬがれる。呼吸が乱れ、恐怖で心臓が早鐘を打った。
「や、やだもう。誰か助けて……」
呻いたその時。通信機から呼び出しアラートが鳴った。
「え、誰?」
制御卓に目をやる。表示されたチャンネルIDは、カンジとの有線通話回線ではない――
「こ、こちらUD307FU『ホークビル』……どうぞ?」
〈クロエさん? 無事だったか……! こちらアウナケア漁協所属、AS203AFC『コンカルノー』だ。救援に来たよ、この嵐じゃ『ホークビル』にはちょっときついからな〉
「その声は……ヤンセンさん?」
自分たちも危険だろうに、どうして――そう問うクロエにヤンセンは、持ち前のぼそぼそした口調で、しかしはっきりと告げた。
〈ホークビルが波浪に弱いのは知ってるからな。カンジたちとはもう何年もの付き合いだし、俺たちの船は丈夫に出来てる。このくらいの嵐なら何とか動けるんだ〉
「ありがとうございます、心強いです」
強風で折れる危険もあったが、アンテナを伸ばしたままで良かった――クロエは背筋に冷や汗が伝うのを感じた。早々と収納していたら、彼らと連絡を取るのにもっと時間がかかっただろう。
雨を透かしてキャノピーから外をうかがえば、驚いたことに『コンカルノー』はもう間近の位置に寄せてきていた。彼らはすぐに縄梯子で降りてきて、ホークビルの上で何やら大掛かりな作業を始めた。
「これ、何をしてるんです?」
〈ああ。フロートと船体の接続を解いて、ロープでホークビルを海中に吊るんだ〉
「えええ!?」
クロエには驚きしかなかったが、さらに説明を受けるとなるほどと思えた。
舷側に取りつけたフロートは、一つ一つが独立しているのではなく、機体の周囲をぐるりと囲んだ軽合金製のフレームでつながっている。そこからロープを吊れば。
「そうか。これ、浮き輪の内側にぶら下がってるみたいな感じになるんですね……」
「そう。つまり、重心の位置を低くする訳だな。もともと宇宙船なんだ、キャビン他各部のエアロックを閉じればまず浸水はしない。嵐が止むまで、これで転覆せずにやり過ごせるはずだ」
作業は漁師たちをしてもかなりの困難を伴ったが、それでも何とか目的は達され、クロエはカンジに再度連絡を入れた。
「カンジさん、こちらはもう大丈夫です……ヤンセンさんたちが、救援に来てくれて」
〈そうか、そりゃ良かった! ……こっちもいま、ナマコモドキをネットに収容中だ。そっちの準備ができ次第、帰投する〉
やがていつしか艇の揺れは収まり、そしてキャノピーの外に見える海中の風景の中に、雲間から差し込むのによく似た光の帯が見え始めた。バラストタンクから排水してホークビルが元通りの姿勢まで浮かび上がり、フロートと再接続された、その後しばらくして――
ネットに収まった巨大な灰色の塊が、カンジのグリルランナーと共にゆっくりと海の底から上がってくるのを、クロエはヤンセンたちと共に見守っていた。