特に当てもない気ままな旅行中の、ほんの気晴らしの一幕――そのはずだった。
* * * * *
「全く、なんでこんなに人が多いのよ……」
クロエ・コープランドは雑踏の中で特大のため息をついた。
事前に調べた限りでは、この居住ステーション「雲台14」は辺鄙な開拓惑星の軌道上拠点として、ごく平均的な規模と人口密度を有しているということだった。なにかの祭りが開催されるといった情報も特になかった。
だがどうしたことか。
粉砕コンドライトで鋪装された街路は、まっすぐ歩くのに苦労する程に込み合っている。
「ひゃ!?」
前方からドタドタと歩いてきた大柄な男を、クロエはどうにかぶつからずにやり過ごした。男は急ぎの用事でもあるらしく、彼女には目もくれずに歩き去っていく。
「危ないなあ、もう……!」
クロエはもう一度手元の情報端末に視線を落とし、表示された地図と目の前の街並みを見比べた。
――うん、大丈夫。こっちで合ってる。
自分に言い聞かせるようにうなずいて、再び歩き出す。
遥か頭上には、このステーションの中心を通る回転軸「ハブ・シャフト」が黒々と浮かんで一直線に伸びている。そのことと、回転が生み出す微妙な慣性を体に感じるのを別にすれば、出身惑星の住み慣れた街並みを歩くのと、さほどの違いはなかった。
目的地は三番区画2-44、イーノック・ゾウン通りにある小さな料理店だ。
「天の川ニュースネットワーク」の星間旅行ガイド・コーナーで、二年ほど前に紹介記事が公開されている。いまクロエが見ているのは、そのアーカイブ版だった。
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【
――海洋惑星ならではの海の幸を、熟練の料理人が千変万化の名菜佳肴に昇華させる、奇跡の美味。
なかでも「雲台ナマコモドキのオイスターソース炒め」は完璧な「戻し」を施された素材と複雑な味のふくらみを持つソース、そして仕上げに加えられた七種類の貴重なスパイスが、一体となって天上的なハーモニーを奏でる絶品です。
単品メニューは全品お手頃な300マルス、セットは500マルスからとお財布にも大変優しいお値段。店内は清潔で簡素に整えられ、カジュアルながら最高の美味体験のひと時を約束してくれるでしょう――
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これでもかと並べられた美辞麗句。文面の端々から、現地へ実食に赴いたレポーターの感激がにじんでいる。
「くぅーっ、美味しいんだろなぁ!」
想像しただけで頬が緩む。格安の定期船を乗り継いで星系から星系へと旅を続けるうちに、こんな場末の惑星まで来てしまったクロエだったが、現在地のグルメ情報を検索してみるのもたまには役に立つものだ、と実感していた。
ただ、記事末尾の評価シートには、
☆☆☆☆★ (味、価格ともに優良、ただし立地にやや難あり)
と、わずかに減点された趣のコメントが記されている。そういえば地図の指示通りに進むにつれて、だんだんと周囲の雰囲気が怪しげになってきているようだ。
人混みはやや落ち着いてきているが、その一方でシャッターを下ろした店舗が多くなり、街路の照明もところどころ破損したままになっている。「立地に難あり」とはこの事をさしているのだろうか?
期待と共に膨らみ始めたわずかな不安。最後の曲がり角を曲がって恐る恐る踏み込むと、そこには――
古式ゆかしい筆文字で「饕餮」と二文字が記された、竜の彫刻で飾られた扁額が、ステーションの構造材がほぼそのままむき出しになった
「あった……! ここだわ」
間違いない。ここが旅行ガイドに乗っていた、「雲台14」の超穴場グルメスポットだ。正面口やウインドーの奥に灯る照明が妙に輝度を抑えてあることに違和感を覚えつつも、クロエは元気いっぱいにドアをくぐった。
「こんにちわ! 営業してますよね!?」
軽やかなドアベルの音と共に、店の奥へ声をかける。店内に客の姿は見当たらず、照明は奥のカウンターに一つ灯るだけ。
準備中だったかな? と首を傾げながら手元の端末で時刻を確認する。現在時刻は「雲台」標準時で夕方6時。
常識的な夕食時間の、まさにピークで間違いない。
「すみませ――」
もう一度奥へ向かって声を上げたその時。ガタン、と音がして、カウンター後ろに見える半開きになったドアの向こう側で、人の気配が
「あれ。もしかしてお客さん……?」
そんな声と共にゆらりとフロアに出てきたのは、東アジア系の風貌をした長身の男だった。察するに彼が店長か料理長だろうか。
「参ったな。今は諸事情で半分休業中なんですよ」
「半分?」
おかしなことを聞いた気がして、クロエはおうむ返しに語尾を引っ張り上げた。「開店休業」というのなら聞いたことがあるし、分かる。だが「半分」とはどういうことだろう?
「あー、まあ説明するか……」
男は億劫そうに切り出した。
「仕入れに協力してもらってる相棒が、不慮の事故でここしばらく療養中でね。いまうちで使える食材は、ステーション近傍のプラントで生産できる、ありきたりのやつだけさ。ご近所に住んでる何人かの常連さんしか、ここしばらくは相手にしてないの」
「え、じゃあ……雲台ナマコモドキのオイスターソース炒めは……」
「うん、無理。っていうか、それ目当てってことは……」
男はクロエの手に持った端末をジロリと睨み、次にか細いため息をついた。
「お客さんもあの記事を見たクチか……迷惑なんだよなあ、あの記事が公開された直後ときたら、ナマコのストックがあっという間になくなって散々だったんだ」
男の口調は次第に、営業向けのものから厭世的なボヤキに移行していた。ひょっとするとこっちが素なのか、とクロエは内心で首をかしげた。
「迷惑って、お客が増えるのはいいことじゃない?」
「まあそうなんだが……雲台ナマコモドキは年間の漁獲量が制限されててね」
「ああー……」
そうか、と腑に落ちる。美味い食材というのはえてして希少な物だったりするのだ――クロエもその辺りのことは知らないでもない。
「まあ、とにかくそういうわけだ、ナマコは当分出せないよ。今日は仕込みもまともにやってないし、ここいらは少しガラの悪い区画でもある。お客さんみたいな見るからにいい所のお嬢さんは、さっさと表通りのホテルに戻った方がいい」
「……しょうがないわね、残念」
クロエは肩を落としてそういうと、踵を返して店を出た。空腹ではあったが、ここまで期待を膨らませて来た身にありあわせのもので何か作って出されても、とても満足などできそうにもない――そもそも、ホテルは今から探さなければならない。
数歩足を運んで、未練がましく扁額を振り仰いだその瞬間。
肩口にズシン、と重い衝撃を感じた。
「ぶっ……!」
胸郭がおかしな具合に圧迫されて、一瞬呼吸が止まる。足がもつれて横ざまに倒れたクロエの視界に、薄汚れた作業衣を着けた若い男の姿が滑りこんできた。
その男が、クロエの手から離れた端末と肩掛けバッグをさっと拾い上げる。ハッとしてそちらへ手を延ばしたが、その時すでに男は小走りに駆け出していた。
「ど、泥棒……ッ!」
取り返さなくては――慌てて立ち上がろうとするが、パニック状態のせいか体が思うように動かせない。言葉になり損ねた叫びを連発する彼女の後ろで、ドアが開けられた気配と人の足音がした。
「何だ今の声……おい、どうした!?」
かがみこんで呼びかけるのは「饕餮」の店長だった。
助け起こされながら、クロエはとぎれとぎれに答えた。
「強盗……! 現金と、着替えの入ったバッグに、身分証……端末、持ってかれ」
しくじった――クロエはほぞを噛んだ。
思えば宇宙港からここまで、ハイエンドモデルの情報端末を手元に出して、頻繁に画面を見ながら歩いて来た。
誰が見ても小金持ちで不案内な旅行者だ、目をつけられていたのに違いない。
「そりゃ……災難だな」
絶句して店長が周囲を見回す。だが、辺りは薄暗く人もそれなりに歩いていて、それらしい人影に見当をつけることはもはやできそうにない。
「すまん。そいつがどっちへ行ったかも分からん……参ったな、俺も見送りに出るべきだった」
「どうしよ……あれがないと、私、この後どこにも行けなくなっちゃう! ね、警察に連絡してくれる?」
クロエの必死の訴えに、だが店長は渋い顔で首を振った。
「……やってみるが、このステーションで名前も分からん奴をいったん見失ったら、探し出すのはほとんど不可能だぞ……建設されてから長い年月が経ってるせいで、当局の管理が及ばない区画なんてそこら中にあるんだ。そもそもIDが登録されてない住人も少なくない」
「そんなぁ。じゃあ私の身分、誰かに乗っ取られちゃうんじゃ!?」
「いや、さすがにそうはならん、ならんが……ここじゃさすがに具合が悪い。いったん店に戻ろう」
店長はクロエに肩を貸して立たせ、店の戸口へ向かって足を踏み出した。
「み、店に戻れば、どうにかなるの?」
「ああ。ステーションの行政府より上位、星系中央の民事管理局までアクセスできる大型端末がある。盗まれた身分証や口座アクセスキーの緊急停止措置も、それで要請できるだろう」
「ホントに……? なんでまた、そんなものが料理店に」
「まあその、な。色々あるんだよ……あと――あんた、腹減ってるだろ?」
――ぐぎゅる。
返事をするべきか迷った刹那、クロエの腹が無情に鳴った。
「……うん」
「賄いで良ければ、タダで提供しよう」
クロエは頬に血が上がるのを感じながらこくりと頷いた。今や着の身着のままだ、贅沢を言ってはいられない。
「ありがとう……えっと」
何と呼びかければいいのか迷うクロエに、店長は少しぎこちない笑みを浮かべて答えた。
「俺はフルソマ・カンジ。この店の