紗希は予定時刻の10時より15分ほど早く、パーラー・セイレへ到着していた。
「お久しゅうございます、紗希様。もう10年ぶりくらいでしょうか……」
懐かしそうな様子を見せるのは、柔和な笑顔がよく似合う40代前後と思しき女性だ。フルーツの鮮やかな香りを漂わせており、胸元には『店長』という名札が付けられている。
紗希は微笑みながら彼女へ伝えた。
「こんにちは。奥に個室がありましたよね?」
かつてこの店に、紗希は琴美に『ご褒美』として連れてきてもらった。
奥にある個室からサラリーマンらしい男性2人組や賑やかなおば様集団が出てくるのを何度も目撃していた。
蘇我家のような旧家が近隣に多く、なおかつ、ビジネス街が近い土地柄のためだろう。
店長は紗希の意を組んだらしい。
「込み入ったご事情がありそうですね。もちろん、奥へどうぞ」
案内された個室は、店内と内装も同じだった。万が一のことを考え、紗希は逃げ出す方法を頭の中で組み立てる。
(この窓からなら飛び降りるのに支障はないわね。店長さんも呼べば来てくれそうだし、お父様も強硬な手段に出ることは、ない、わよね)
気持ちを落ち着けようと、紗希はメニューから緑茶とレモングラスを合わせたオリジナルティーを注文した。
白いカップに注がれた爽やかな香りが、心を落ち着かせてくれる。
「……莉々果、怒るかしら。怒るわよねぇ」
今日の事は昇吾にも嘘をついただけでなく、莉々果の名前を出してしまった。莉々果と一緒だと聞けば、昇吾も納得すると考えたためだ。
今更のように、昇吾に話を通しておくべきだったかと考え込んでしまう。
だが紗希は思いなおす。
(昇吾さんも、心の声を聞きとらないように努力をなさったのだもの。私だって、自分でできることを増やしていかなくちゃ)
10時を迎えた頃。スマートフォンの通知音が響いた。思わずカバンを開いて、紗希はハッとする。
カバンの中にあるのは、プライベート用のスマートフォンだけだ。
しまった、と思う。ビジネス向けのスマートフォンを自宅へ置いてきてしまったらしい。
本当に、万が一、俊樹が仕事の話をするとしたら、そちらに記録を付けたかったのに。
だが機能面ではプライベート用のスマートフォンも、特に大きな違いはない。
改めて心を落ち着かせつつ、紗希はメールソフトを起動させ『音声入力』を起動させる。
俊樹との会話内容を残しておき、万が一に備えるためだった。
さらに10分ほど経過して、ようやく俊樹が現れる。黒々とした頭髪をオールバックへ整えており、昭和の映画スターを彷彿とさせるような凛々しい面立ちが際立っていた。
彼は席へついている紗希を見て、鼻で小さく笑う。
「流石に親よりも遅く来ないだけの分別はあったようだな」
とげとげしい口調に、紗希は目を細める。先んじて録音を始めていて良かったと思いながら、冷静に返事をする。
「お父様、お久しぶりです。お元気そうで何よりですわ」
「まあな。お前がいないと屋敷が静かで落ち着けるよ」
運ばれてきたコーヒーに手を付けながら、まるで悪びれる様子もなく父親が言う。
自分がいたころは騒々しかったとでも言いたげな言葉は、紗希の心をぐさりと突き刺した。蘇我家で暮らしていた【死に戻り】前の自分を思い出してしまいそうで、紗希は話を切り出す。
「それで、仕事とはどのような?」
「仕事? ああ、そうか、そういう要件で呼び出したんだったな」
「まさか嘘だとでもおっしゃるのですか。蘇我家の当主ともあろう方が」
内心、予想はしていた。動じずに紗希が言うと、俊樹は紗希の反応に大きく目を見開く。
「いいや? ただ、仕事の話よりも前に、まずは琴美のことを話しておきたいんだ。お前も心配事は減った方がいいだろう。たとえば……」
もったいぶる様に言葉を区切った俊樹は、冷静な表情で言った。
「琴美の死因は、自殺なのか、それとも心不全なのか、とかね」
紗希は目を見開いて固まる。
「私と琴美が出会ったのは、お見合いの場だった。蘇我家の遠縁にあたる私のもとに、親戚たちから琴美との結婚話が持ち上がったんだよ。蘇我家の血筋のためだと聞かされていてね。私は恋愛至上主義だったから、お見合い話なんて、と思ったさ」
懐かしそうに語る俊樹は、コーヒーカップをソーサーへ戻した。
「だがお見合いの場で出会った琴美は、本当に楽しくて、優しくて、美しい女性だった。私は彼女に惚れ込んだ」
そんな馴れ初めだったとは、紗希は全く知らなかった。父親の思いがけない人間味のある表情に、困惑が込みあがる。
紗希の知っている父親は、琴美に対して全く興味のない人間だ。いや、情の欠片さえもなかったはず。もしも情があったのなら、明日香と明音を蘇我家へ住まわせるとしても、琴美の産んだ娘である紗希に少しは声をかけてくれただろうに。
疑る紗希のことなど気づいていないのか、俊樹は話を続ける。
「彼女は私と結婚するかどうか問われた時、こう答えたんだ。『私は13歳の娘を遺して亡くなります』と」
13歳。紗希が琴美を亡くした年齢、そのものだ。
紗希には琴美が本当に俊樹へそう話したのか確かめる術がない。嘘という可能性ももちろんある。
「私は最初、信じなかった。彼女がそんなに早く亡くなるとは思わなかったし、どうして娘を遺すと言い切ったのかも理解できなかった。だが……お前が産まれた」
「娘が産まれる点は合っていた、ということですね」
騒ぎ立てる胸の内を抑えて紗希が言うと、俊樹は頷く。
「その通りだ。私は……琴美がいなくなる未来を考えるようになった。お前が大きくなるごとに、その気持ちは膨らんでいった。いつかお前だけを遺して琴美がいなくなる。そんな未来は嫌だ。私は琴美にできる限りのことをした」
「だったらなぜ、明日香さんと結婚なさったの?」
怒りに震えながら紗希は俊樹を睨みつけた。
落ち着いたころ合いに明日香と出会った俊樹が、恋愛の末に再婚するのなら紗希だって納得する。だが、浮気は違うはずだ。
しかし、俊樹はまるで気にした様子がなかった。
「いつか来る別れをおもえばこそだよ。琴美にも、明日香がいるから大丈夫だと伝えて、承諾してもらっていた」
あまりの衝撃に紗希は震えた。
「そして、ある日、何の前触れもなく、とてつもなく健康だった琴美は死んだ。それまで信じていなかった【死に戻り】のことを、私は初めて信じたよ。琴美はおそらく、前世で同じ時期に亡くなっていたんだ。だが未来は変えられなかった……」
俊樹の目が紗希を睨みつける。彼は紗希を責め立てるような口調で言った。
「お前の運命が、琴美を殺したんだ」
紗希の頭の中が真っ白になる。心臓がバクバクと鳴っていた。