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第6話 元悪女と、家族(2)


 父親に対し、あんな風に対応したのは二度目だ。蘇我家と決別したあの日以来。


 今度はあの時と状況が違う。だがどうしても不安が胸から拭えず、紗希は決まってしまった予定について考え込みつつも、部屋から出た。


 リビングで何をするでもなく立ち止まる紗希に、昇吾は問いかける。


「どうした、紗希」


 紗希はすぐには返事をせず、十秒ほど黙ってからハッとして顔をあげる。


「あ……ごめんなさい」


 いつにない様子の紗希に、昇吾は少しだけ違和感を覚えた。


 彼女がこんな風にぼんやりとする様子は見たことがない。最近の疲れが出たのか、それとも別の理由だろうか。


 昇吾が違和感の正体を探るより早く、紗希が笑みを浮かべた。


「なんだか帰ってきてホッとしすぎちゃったみたいです。少しお風呂に入ってきますね」


 止める間もなく立ち去る紗希の背に、昇吾は言いようのないもやが胸の内を覆っていくのを感じながらも、何も言えずに見送る。


 入浴後、昇吾に対し紗希はこう告げた。


「莉々果と仕事の話をしたんです……。それで、実は明日の朝、彼女と会う約束をしたんです。9時には家を出て、帰りが分からないので、お昼は一緒に食べられそうにありません」


 しょんぼりとした表情を浮かべる紗希に、NOとは言えない。


 とはいえ、せっかく年始のパーティーや催し物ラッシュが落ち着いたので、今日こそは紗希を堪能したい気分だった。


「じゃあせめて、今夜は一緒に眠っても?」


「……イタズラは無しですよ」


「ふれあいはイタズラじゃないだろう」


 囁きあいながら2人は寝室に向かう。


(これは、イタズラじゃすまないでしょうね……)


 紗希が内心で呟く声が聞こえた時。昇吾はたまらなく安心したのだった。



===



 翌朝。


 キスもままならないうちに、紗希がビジネス向けの凛々しいスーツ姿で玄関に向かう。


 シニヨンヘアにまとめられた黒髪も相まって、まさしくクールビューティーという言葉が似合っていた。


「紗希、いってらっしゃい」


「っ、昇吾さん……あのっ」


 紗希が両手を突き出して昇吾を上目遣いに見つめる。ハグを要求する姿勢に、たまらずに昇吾は彼女を抱きしめた。


「ごめんなさい」

(仕事だって言い張ってしまったわ……)


 呟くように言う彼女に、本当は紗希も自分と触れ合いたいのだな、と昇吾は考える。


 何か事情があるのは透けて見えたが、踏み込むのは少しためらわれた。


「気にするな。っと、忘れるそうだ、これ」


 カードキーがセットされた真新しいカードケースを渡されて、紗希は目を輝かせる。


 軽井沢で購入した鹿革のカードケースだ。受け取ると、なめらかなで柔らかい質感が指先を楽しませた。


「スペアキーですね!」


「ああ。すまない、この部屋はもともと、俺一人で暮らすつもりだったから、申請に手間取ってな」


「当然です。むしろしっかりした管理体制で、安心しました」


 紗希はカードキーを受け取り、カバンへ入れる。


「……行ってきます」

(昇吾さん。必ず、帰ってきますから)


 妙な違和感が昇吾に起きる。思わず紗希を引き留めたくなったが、仕事だと言う彼女を引き留めるのはためらわれてならなかった。


 玄関を出ていく紗希を見送り、昇吾は部屋に戻る。彼女が落ち着くと言った室内が、急に広くて物寂しい空間に思えてならなかった。


 食事後の片づけを済ませ、久しぶりのオフをどう過ごすか考えてみるも、思いつかない。


 リビングのソファに腰かけ、紗希との旅行先での写真をスマートフォンで見返していく。


 軽井沢の別荘で撮影した彼女の写真は、いずれも笑顔だった。一緒に購入したブーツがよく似合っている。


 雪ではしゃぐ紗希。パーティーに向けてドレスアップをした紗希。いずれも昇吾には愛らしい存在として映っていた。


 ブーツを見て嬉しそうにする紗希の写真に、昇吾は指を止める。


(見ただけで足のサイズが分かったのかしら? ……)


 紗希が心の中で呟いた声を思い出し、昇吾は思わず噴き出した。


「まったく。誰にも聞こえないのが安心するくらいだ。こんなにも可愛らしいところがあると分かったら、競争が余計に、激し、く……」


 大きく心臓が跳ねる感覚と同時、昇吾の背中に冷や汗が噴き出す。


「いや、待て? いつからだ?」


 昇吾は昨夜の夕食後から、ずっとあった違和感の正体に気づいた。


 意識して思い返しても、紗希の心の声がいつも通り聞こえた記憶がない。いつからかは定かではないが、ほんの一部しか聞き取れなくなっていた。


 聞いてもいいと紗希が許してくれた声。当たり障りのない声しか聞こえないのだ。


 本来ならば何も問題がないはずなのに、昇吾にとってはあまりにも恐ろしい出来事だった。


 彼は感じたことのない焦燥感に包まれながら部屋を飛び出した。紗希の部屋のドアをノックする。ノックしてから、ハッとして気づいた。


「っ、そうか。紗希は出かけたばかりじゃないか!」


 そんなことさえも忘れてしまうほど動揺している自分にあきれながら、昇吾は最低限の持ち物だけを手に部屋を飛び出す。


 エレベーターを待つ時間が惜しく、エントランスホールまで駆け降りる。


 汗だくで現れた青木昇吾に、この高級マンションの常駐コンシェルジュも目を見開いていた。


「あ、青木様、どうなさったのですか」


「同居人の蘇我紗希はタクシーを頼んだか?」


「いえ。私共には頼んでおりませんね。配車アプリでタクシーをお呼びになったようですが……」


「今から何分前に出た?」


 ただ事ではないと思ったのだろう。コンシェルジュが手元の端末を操作し、指さしで確認する。


「今から30分ほど前ですね。方角からして都内の方へお向かいになったようです」


「ああ、そう、そうか……分かった。すまない」


「何かあったのですか?」


 昇吾はコンシェルジュに尋ねられ、笑みを浮かべる。


「いや。彼女が忘れ物をしてしまってね。今、連絡があった。問題ない持ち物のようだ」


 青木昇吾も慌てるほどとなれば、よほどの品物だったのだろう。仲睦まじい2人の様子を知るコンシェルジュは、そうでしたか、と返事をするにとどめた。


 一方の昇吾は自分の焦りを何とか押しとどめ、部屋に戻るという選択をしたところだった。


(ここに帰ってきてから、紗希の心の声が断片的にしか聞こえていないのは事実だ。だが俺は今日、彼女がどこへ行くのかさえも聞いていない……)


 一度部屋に戻った昇吾は、紗希の自室へ向かう。本来なら咎められる行動とは分かっていたが、胸の内をよぎる違和感が昇吾に決断させた。


「紗希、入るぞ!」


 いつになく荒い口調でドアノブへ手をかけると、鍵はかかっていなかった。だが何の安心材料にもならない。


ドアを勢いよく開け放った昇吾の前にあったのは、誰もいないゲストルームだ。


 紗希の持ち物こそ置かれているが、当の本人はいない。当たり前なのだが、その光景がどうしても昇吾を不安にさせていく。


 室内を見回すと、スマートフォンがテーブルの上に置かれていた。


「確かこれは、紗希の仕事用のスマホのはず……」


 仕事のためなら、どうして置いて行ったのだろうか。するとディスプレイに着信を知らせる通知バーと共に、電話を受けるための受話器マークが表示された。


 莉々果という名前に、昇吾は数秒だけ悩んでから受話器マークに指をおく。スワイプすると、明るい声が響いた。


『もしもし、紗希ちゃん?』


「すまない、莉々果さん。昇吾だ」


『あれっ!? 私、間違えてる?』


 驚いた様子で声をあげる莉々果に、昇吾は内心に膨らむ嫌な予感が間違いではなかったと知る。


 理由は分からないが、紗希は昇吾に何かを隠し、外に出た。それも、莉々果という親友を隠れ蓑に、仕事だと嘘をついて。


 感じたことのない恐怖が背筋を這い上がるのを自覚しながら、昇吾は祈るような思いで尋ねる。


「確認させてほしい。紗希と今日、10時に仕事の話をする約束はあったか?」


『ないよ? ちょっと、どういうこと?』


 様子がおかしいと分かったのだろう。莉々果の声が震えだす。


「均にも連絡してくれ。何かが俺に、あるいは彼女に起きている! 紗希の行方を捜すぞ!」


 昇吾は焦りを感じながら、莉々果にそう伝えたのだった。


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