雪山を吹き抜ける夜更けの冷たい風が、静寂の中にぴいぷうと物悲しい音をたてている。
だが上を見れば、冬の冷気が含む澄んだ清々しさと、空一面の星々の競演に彩られた濃紺の夜空がある。
あの後。静枝に起こされた2人は、寝室へ向かった。
すると何かを思いついた様子の昇吾が、紗希に声をかける。
「紗希。ちょっと寒いところは平気?」
「ええ。でも――きゃっ!?」
昇吾の腕が紗希の体に回される。昇吾が毛布を肩に羽織った状態で抱き着いていた。
「ど、どうしたんですか!?」
「見せたい景色があって。ベランダに行こう」
「ふ、普通に連れていって、ひょわっ!」
昇吾の分厚い胸板や腹筋が、パジャマ越しに伝わってくる。紗希は頭の奥まで痺れるような恥ずかしさに震えながらも、逃げ出すに逃げ出せない。
紗希はそのまま昇吾に背を押される格好で、夏にホタルを見た小川を見下ろすベランダに出ていた。
「わあっ……!」
言おうと思ったことが、全て紗希の頭から吹き飛ぶ。
何とも言えない感動が紗希の体を包んだ。
街の明かりが届かないこの場所には、冬の静謐そのものが広がっている。
周囲は深い闇に包まれているが、地面を照らす月明かりが雪を宝石のように輝かせていた。おかげで、小川の様子がよく見える。
小川の水面にはうっすらと銀の霜がまぶされ、川の流れが浅いところでは氷も張っていた。
地面に落ちた葉の音、せせらぎ、氷柱が鳴らすキーンとした音。聞いたことのない音が、たくさんある。
「このベランダ、よく星を眺めに来ていたんだ」
昇吾が静かに呟く。紗希は白い息を吐きながら問いかけた。
「星を?」
「あれこれ考えるのが楽しかったんだ。あの星を見ている人間が今、この世界にどのくらいいるのかな、とか」
昇吾は懐かしそうに目を細めながら、毛布の中に抱きすくめた紗希の頭上で微笑む。その表情は、子供の頃の無邪気な想像を思い出しているようだった。
「それから、笹の葉で船を作って、よく流した。どこに行くかわからないのに、それを追いかけるのが楽しくて……」
彼の言葉に、紗希は川面を覗き込んだ。
寒さに凍えるような水面をじっと見つめると、月明かりに溶かされたように氷の塊が落ちては、ゆっくりと流れていく。
あんなふうに笹船も流れていったのかもしれない。
氷の波紋は静かな水面に広がり、またたく間に消えていく。
「誰かに教えてもらったんですか?」
紗希が尋ねると、昇吾は答えた。
「父に教えてもらったんだ」
「えっ。お義父さまに?」
笹舟を作るジェスチャーだろうか。月明かりの下に掲げた手を、昇吾が動かす。
何度も作ったのかもしれない。慣れた手つきだった。
空中に描いた笹舟を月明かりに解き放つように、彼は手を開く。紗希はその行方を視線で追いかけた。
紗希の表情は優しく、眼差しは小さな船の行く末を見守っている。
「……どう動くか分からないのが、面白かったのかもしれませんね」
紗希が呟く。月明かりに漕ぎだした小さな空想の中の船は、冬の風に身を任せ、ゆっくりと進んでいったように思える。
「そうな。船は波と水に支えられたり、時にはその激しさに飲み込まれたりする。でも、それでも、その流れに背を押され、前へ、前へと進んでいくんだ」
昇吾の手が紗希の体をぎゅっと抱きしめる。
紗希は彼の言葉に、ふと自分を重ねてみた。
(今まで生きてきた中で、どれほどの流れに私は翻弄され、時に誰かを押し流してしまったのかしら……)
前世のことを思えば、常に紗希は流れに巻き込まれて、ひたすらに前へ向かって押し流されていたのかもしれない。
でも今は、今の紗希は、違うと思えた。時に浮かび、時に沈み、それでも歩みを止めずにいた。
辛いことや苦しいこと、悲しいこと、寂しいこと。様々な経験をしながら、それでも懸命に生きてきたと、今は言える気がする。
「誰が何と言おうと、俺はずっと紗希の味方だ」
昇吾の腕の中は驚くほど温かく、紗希の指先までじんわりとそのぬくもりが伝わってくる。
「昇吾さん……」
紗希は彼の胸に顔をうずめ、静かに目を閉じた。彼の心臓の音が、力強く鼓動しているのが聞こえてくる。
生きている。今、2人はこうして、生きている。
(大丈夫。きっと……)
目を開けた紗希の顔に、昇吾が静かに唇を寄せた。
紗希はそっと目を閉じ、触れてくる唇を受け入れる。表面だけをなぞるようなキスはやがて深さを増していき、思わず紗希は膝を震わせてしまう。
キスの余韻を残しながら、昇吾がそっと囁いた。
「もっと温まりたい?」
その言葉に、紗希は頷く。
「はい。ちょっと寒すぎますから……ベッドにいきましょうか?」
昇吾は返答に詰まる。彼女の心が見えるからこそ、その言葉は純粋に述べられた通りの意味しか持っていないと理解した。
―― 意味が違うんだがな。
室内に入ると、暖かさが全身を包み込んだ。紗希の手は昇吾の傍から離れようとしない。
「紗希?」
「っ、昇吾さん、少し、まだ、話したいことがあるんです」
紗希は泣き出しそうな顔で言う。
「死に戻ったとき、私、母の死は『自殺』だったと思っていた。でも篤お兄さんは母の死を『心不全』だと思っていて……その理由が分からなかった」
溢れ出る涙を止められないまま、紗希は昇吾に語り掛けた。
「でも今日、静枝さまに、お義母さまに抱きしめられて、たとえどちらの理由だったとしても、母は私を愛してくれていたと思えたんです……。ちゃんと昇吾さんにも、話しておきたくって……」
昇吾はそっと頷き、紗希を抱きしめる。
「俺も君を愛しているよ、紗希」
「はい……私も、愛しています……」
真冬の夜の中。2人は強く、互いの熱を感じていた。