莉々果たちが帰宅し、昇吾と二人だけになった室内。
昇吾は紗希に向き合うと、言い放った。
「紗希さん。君は今、俺に対して『どうしてあんな話をするように伝えたの?』と考えているだろう?」
紗希は何のことか一瞬分からず、昇吾を見上げる。見当違いのことを言われたからではない。
あまりにもそのものずばり過ぎる言葉を投げかけられたせいで、理解ができなかったからだ。
「ど、どうして?」
「今日、蘇我家と宮本家、そして小田家の力について聞いたはずだ。本当はこんな風にいろんなことが起きたあとに伝えるつもりじゃなかった……だが、篤があんなふうに操られていた可能性が出た以上、君にもちゃんと知っておいてほしいんだ」
「ええと。つまり、均さんの、いえ、宮本家の力について、ということですよね?」
「それだけじゃない。今の俺の力も、だ……」
昇吾はじっと紗希の顔を見つめる。紗希は何を言われるか分からず頭が真っ白になっていった。
「俺は、君に婚約解消を告げられたあの日から、君の心の声を聞き取り続けているんだ」
紗希は、ぽかん、として昇吾の顔を見つめた。
「えっ……?」
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紗希は熱いシャワーを頭から浴びたあと。自室に戻り、じっ、とベッドに座り込んでいた。
冬の冷たい風が窓越しに吹いているのだろう。カタカタと揺れる音が響いてきた。
紗希はスマートフォンを握りしめ、画面に表示された名前をじっと見つめる。
「昇吾さんに私の心の声がずっと筒抜けになっていた……?」
小さくつぶやいた声は、すがるような響きを持っていた。
ありえてほしくない。なのに、あまりにも、いろんなことが起きすぎて『心の声が聞こえる』くらいはありえてしまうような気持ちになってきた。
真琴は宮本家に伝わる「共感の力」を持つ一族だった。その力は相手の感情を察し、時には強く引き出すことができる特殊なもの。
彼女にとっては幼い頃から当たり前のように存在する力なのだろうか。それさえも、紗希には理解が及ばない。
だが、その力を産み出す根源となったのは、宮本総一郎の企みだ。
真琴が蘇我家に取り入り、昇吾を翻弄していたのも、この力の延長にあるものだろう。
だが、それ以上に重要なことがある。もしも昇吾にも力が現れているとすれば、それはいわゆる『テレパシー』のような力かもしれないということだ。
(というか、実際に私にそう言った……莉々果も、均さんも、力についてなにも疑問を抱いていないみたいだった……)
深呼吸をして心を落ち着けると、紗希は震える手で昇吾に連絡を取る。コール音が数回鳴った後、彼の声が響いた。
『紗希か。よかった、連絡くれて……』
その声にはどこか安堵の色が含まれていて、紗希の胸がじんわりと温かくなる。
「昇吾、さん。あの。私が今、何を考えていたのか、分かりますか?」
紗希の言葉を聞きながら、昇吾は「無理しなくていい」と優しく諭す。
その言葉に、紗希はこれまでの緊張が少しずつほぐれていくのを感じた。
『ああ、分かるよ。莉々果も、均さんも、力についてなにも疑問を抱いていないみたいだった……といったところだろう?』
昇吾の回答は、大当たりだった。紗希は眩暈がしそうになる。
(つまりあんなことも、こんなことも、全部聞こえて……?)
『君が俺のことが大好きで、愛しているということは、ずーっと聞こえていた』
くすくすと笑う昇吾の声に、紗希は悲鳴をあげそうになった。
「ど、どうしておっしゃってくださらなかったんですか!?」
『嘘かと思ったんだ。青木家に伝わる力だとは知っていたが、まさか自分に発言するなんて、少しも予想がつかなかった……』
「そ、それは、その、そうですけど……」
紗希だって、実際に死に戻りを体験しなければ『蘇我家には過去に死に戻る力がある! その力でやり直してきた!』などと言われても、絶対に信じられないだろう。
均と莉々果。二人に言われたからこそ、宮本家の力についても辛うじて信じているくらいだ。
『ところでどうして電話を?』
「だ、だ、だって! 正面から会ったら、声が聞こえてしまうのでしょう?」
『電話でも読み取れる。というか、君と同じ家の中くらいなら大丈夫だ』
「えぇええっ……!」
紗希の言葉を楽しむように昇吾が言う。
『でも。君が俺に聞かせたくない話があるというのも、理解はできる。どうしたらいいか、試してみようか?』
「えっ、と……それは……」
『そこで戸惑うのか……』
昇吾の意味深な言葉を無視して、紗希は気持ちを落ち着かせる。
「なにか……私の声を読み取らないようにする方法に心当たりはないんですか?」
『そうだな。君の心の声をもっと聴きたい、と思うと、より聞こえる気がする』
「……でしたら、昇吾さんが」
『もう試した。だが、どうやら君が俺に想いを向けているせいか、君の心が常に筒抜けになってしまうんだ』
紗希は思わず自分の胸に手を当てた。心臓が高鳴る。
「えっと、つまり……」
『君が俺を嫌いになれば、聞こえなくなるかもしれないな?』
意地悪な声色に、紗希は反射的に叫んだ。
「そんなことありえません!」
彼の最近の変貌ぶりを思い返すと、テレパシーの力が現れている可能性が頭をよぎる。自分が隠してきた不安や、言葉にできなかった思いがすべて聞こえているのかもしれない。
(それなら、全部聞こえていたってかまわないわ……だって、本当だもの……)
心の中でそうつぶやくと、顔が熱くなった。昇吾の声が優しかっただけに、なおさら自分の未熟さが恥ずかしく思える。
(仕方ないわよね……だって私、昇吾さんが初恋だし、他の恋愛経験なんてないのだから、大人の恋なんて……)
すると電話口で、昇吾が息を飲むのが聞こえた。
(えっ? ……あっ、そ、そうよね!? 聞こえてるんだから、今のも……!)
紗希の顔面がどんどん熱くなる。
声に出せばいいのに、頭の中で考えるのがやめられない。
『紗希さん。会いに行ってもいいか? ものすごく間近なら、声がいっそ、聞こえなくなるかもしれない』
紗希は返事ができなかった。頭の中があまりにも真っ白になってしまって、昇吾に返事をしようにも、言葉が何も思いつかない。
『返事がないなら、OKと受け取るよ? いいかい?』
どうしよう。紗希は震える指先で、思わず、電話を切った。
(……昇吾さんとなら、どんなことだって)
胸の内で言葉を思い浮かべる。どうせ伝わるんだから、そう思って。
しばらくして。昇吾が、部屋に現れた。ネイビーのパジャマを身にまとった彼の体から、風呂上がりの香りが立ち上っている。
紗希と同じ香り。しかたがない、同じ家に住んでいるのだから。
そんなことを考えてから、紗希はとんでもない恥ずかしさに、思わず昇吾から顔をそむける。
「紗希」
昇吾が紗希の名を呼ぶ。それだけで、彼女の心臓は早鐘を打ち始める。
「あの……私、今……」
恥ずかしさに思わず顔をそむけた紗希だが、すぐに思い直して彼に向き直った。
「……その、お風呂にはもう入ってありますから! だから、大丈夫です!」
何が大丈夫なのか分からないまま、とにかくそう叫ぶと、昇吾は嬉しそうに笑った。
その夜、紗希は眠りにつくことができなかった。
何もかもが真っ白になるような夜の中で、確かなことが二つもある。
彼の存在が、自分にとって特別であるということ。
そして、昇吾に、本当に、自分の声がすべて伝わっているということ。
翌朝、雪のように真っ白な朝日が紗希の部屋を照らした。体に痛みが残っているけれど、幸せで、甘い痛みだ。
隣に眠る昇吾の横顔を見ると、鮮やかに昨夜の出来事が思い起こされる。
(……私は)
月日は流れていく。黙っているだけでも紗希の日常は未来に向けて進んでいくのかもしれない。
でも、それだけではだめだ。
窓の外の木々は寒風に揺れている。もうすぐ春が来て、そして芽吹き、夏がきて……タイムリミットとなる紗希にとっての5年目がやってくるのは、もうすぐだ。
紗希は決心した。
「今までよりもたくさん話そう。昇吾さんと向き合うためにも……」
彼女は新たな一歩を踏み出す準備をするように、窓の外を眺めていた。