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第10話 元悪女は、忘れない(4)

 まるで幼い子供に戻ったように蹲る篤の前で、紗希は腰を屈めた。


「私には今の白川さんとの未来を思い描くことはできないし、できればもう会いたくありません。これ以上の行動を起こすのであれば、白川さんがどんな立場であろうとも、自分がどのような悪評をたてられようとも、私はあなたに立ち向かいます」


 責めるような口調でもなければ、なじる口調でもなかった。ただ淡々とした紗希の声が続く。


「白川さん。あなたは、ご自身の幸せを、もう一度考えるべきです」


 あたたかくて、優しくて。でもどこか物悲しさを感じる声に、昇吾は胸を打たれた気がした。


(そうだ。彼女はずっと、篤に対し驚きや恐怖を感じても、優しかった時の篤の姿を忘れなかった……。そして今もなお、篤の幸せを願っている……)


 だから今、彼女の心には怒りや憎しみといった感情は浮かんでいないのだろう。


 むしろ篤が哀れでならないのだと訴えているかのような紗希の想いに触れて、昇吾は彼女の肩を抱く手に力を込める


「……僕、僕は」


 虚ろな目で呟く篤をかばうように、関口が突然、廊下の真ん中に突っ伏した。


 土下座をした彼女は、か細くも力強い声で言う。


「大変申し訳ございません。私が白川を止められなかったのが、全ての始まりです! 蘇我さまへ気持ちを伝えるチャンスなのだと応援してしまったのです……!」


 篤はそんな関口へ一度も視線を向けることはなく、虚ろな目で紗希だけを見ている。


 口元からはかすれた吐息が漏れるだけ。だが篤は何かを考えている。


 それを直感した昇吾は、紗希をかばうような姿勢のまま、篤に声をかける。


「篤。お前が本当にしたかったことは何だ?」


「……僕が、したい……こと」


 今日の篤に対する違和感の正体が分かった気がして、昇吾は彼の答えをじっと待った。


 彼の存在はいるだけで人を惹きつけてやまなかったが、それは彼が自らの行動への自信に満ち溢れていたからだ。


 だが今の篤には、その自信がない。常に彼は迷い、怯えている。

 篤はマネージャーの方を振り返ろうとするが、紗希を見つめなおす。


「君がほしいんだ、紗希。君だけが、僕を救い出してくれる」


 そんなことありえない。紗希は篤を見つめながら、首を横に振った。


「あなたが手に入れたいのは、きっと過去の私です」


「どういう意味だ? 今の君と何が違うんだ? 君は君だろう?」


 紗希は黙り込む。彼女の肩を抱く昇吾の手に、力がこもった気がした。


「あなたが望んでいる私は、もうどこにもいないんです」


 少なくとも。ここに立っているのは、3年前に死に戻った紗希だ。


 死を経験した自分が、篤が求めてやまない過去の自分とまったく同じとは、紗希にはどうしても思えなかった。


「どうしてそんなこと言うんだ! 僕は本当に君が必要なんだ!」


 叫ぶ篤に、紗希は悲痛な面持ちで涙を溜めた。その眼差しを見て、彼が再び言葉を失う。


 そんな二人の様子を見守っていた関口が、深く頭を下げた。嗚咽交じりの涙声で呟く。


「私が白川を止められなかったばかりに! 申し訳ありません。もうしわけありません……」


 悲痛な叫びが廊下に響く。篤は謝り続ける関口を、ただ唖然と見つめていた。


 篤は怒りとも悲しみともしれない表情で、紗希へ声をかける。


「……僕は、本当に君の助けになりたかったんだよ。それだけは本当だ」


 信じてほしい。そう言わんばかりの声だったが、紗希は首を横に振る。


「その方法も手段も、間違っていたんです。白川……いいえ、篤お兄さん。ごめんなさい、さようなら」


 紗希がそう言った時。宮本均がそばに来た。会場はどうやら、お開きに向かって進んでいるらしい。


「身内の不始末だ。まかせてくれ」


 均が膝をつき、篤に視線を合わせる。彼の目をじっと見つめた均が、ふっ、とほほ笑んだ。


「白川篤。CM発表会を成功で終わらせたい。なあ、昇吾?」


 張りのある声には、篤への信頼が満ちていた。それを敏感に感じ取ったのか、篤の表情が切り替わっていく。


 昇吾も笑みを浮かべて、均の隣に膝をついた。


「……ああ。お前に助けてほしいんだ、篤」


 篤の右手を均が、左手を昇吾が掴む。二人が引き起こすと、篤はするりと立ち上がった。


 彼は紗希に一瞬だけ目を向けるが、かすかに笑みを浮かべるにとどめる。


 その表情には、紗希に向けられていた甘さはない。白川篤という名にふさわしい、身震いするほど美しい日本の名優が、そこに立っていた。


 均が手を上げると、会場から拍手が起こる。


 司会のアナウンスに続き、篤と昇吾が共にパーテーションの向こうから現れると、悲鳴に似た歓声が沸き起こった。


 その声を聞きながら、関口が顔を両手で覆って泣きじゃくる。彼女の背をさする森田は、事情が呑み込めないながらも、関口の想いに胸を打たれたのか涙を浮かべていた。


 すると均が紗希に小さな声で言う。


「紗希さん。昇吾に言われているんだ。少し早めに家に戻ってほしい、って」


「……わかりました」


 頷いた紗希の目には涙が浮かんでいる。


 裏口へ向かう足が少し重い。


(私は……なんて無力なんだろう)


 篤に対する恐怖心よりも、自分の無力さへの怒りの方が強いことに、ようやく気づいた。


 何か一つ。何か一言。少しでも変化を起こせていたら、篤と関口が傷つかずにいた未来だって、あったのかもしれない。


 紗希は会場にいるであろう昇吾に、そして白川篤に想いを馳せた。


「紗希さん、いこう」


 均の声掛けに、紗希は頷く。恐縮しきりの森田を慰めるのも忘れずにいられたのは、胸によぎる熱い想いのおかげだった。


(たとえもう一度死んだとしても、きっと忘れない。……篤お兄さん、あなたと過ごした、あの日々を、もう二度と、私は忘れない……)


 一歩踏み出す。裏口に回された車に乗りこんで、紗希は後部座席にいた先客に目を見開いた。


「えっ、莉々果?!」


 ひらり、と手を振る彼女が小さく笑う。有無を言わせず、彼女は紗希を車に引きずり込むと、タブレット端末を手渡した。


 文句を言おうと口を開きかけた紗希は、端末に映る映像に目を見張る。


 パーティーの壇上。篤が笑みを浮かべ、映っている。


『もう、大丈夫。俺は、もう一度飛び立つよ』


 閉会のための言葉にしては、脈絡のない言葉だった。


―― これは自分のための言葉だ。


 紗希は目を伏せる。彼の気持ちを信じようと、紗希は強く思うのだった。





第2章 おわり


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