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第10話 元悪女は、忘れない(3)


 関口は自身のカバンからスケジュール帖を取り出すと、急いで捲りだす。


「は、はい……そうです。確かに、何が何だか分からなかったのですが、とにかく紗希さんを会わせなくてはならないと、無理を通したんです」


「どうやって?」


「それは『グリーン・リアリティ』側に、紗希さんを呼び出してもらえなければ、CMの件について考え直すと……」


 脅しも同義だ。


 紗希は今更ながら、自身を退職させた取締役執行役員の三神剛志の判断が、決して無理やりなものではなかったと思い知る。


 高額な費用を払ったCMと一社員のスキャンダルを天秤にかけたら、世間から非難される可能性が高い後者を切り捨てるだろう。


 もちろん褒められた方法ではなかった。でも、理解はできてしまう。


「どうしてそんなやり方をしたんですか?」


「そ、それは……わかりません。どうして、私……」


「華崎真琴はかつて、弊社の広報関連に携わる俺の弟を騙し、その実績をかすめ取っていました。その後、紗希に対して脅しをかけ、さらに婚約者である俺と紗希の関係に影響を与えたからと言って自主退職しています。今回は会場でも騒ぎを起こしました。篤、そして関口さん。お二人も、会場での騒ぎは見ていたのではありませんか?」


 昇吾の言葉に、篤と関口が震えた様子で立ちすくむ。


 二人に何が起きていたのか、昇吾は確定したも同然だと感じていた。


(真琴の『絡繰』で、誘導されていたのか……)


 二人は真琴に誘導され、気が付かないうちに行動していた。

 様子を見る限り、思い出したというよりは思い込まされていたという表現が正しいだろう。


 だが決定的だ。篤が紗希に対し強い執着を向けることで、紗希の立場は危うくなる。


 その件で焦った『グリーン・リアリティ』へ圧力をかけて、紗希を失職という窮地に貶めるために、関口を利用したのだ。


 篤は助けを求めるように、紗希のほうを見つめた。


 不思議にも紗希は、彼に再会した時ほどの恐怖やショックを感じずにいた。


 むしろ懐かしさに似たものを感じてしまう。


(思い出した。あの目よ。彼もまた孤独に苦しみ、悩んでいるって、そう直感した目……!)


 きっと何か、訳がある。訳があって、彼は命を断とうとした。


 その選択肢を阻む権利が自分にあったのか、ひたすら考える中で、紗希がやっと紡いだ一言。


 母のように苦しみの果て、一人ぼっちでひっそりと息を引き取らずに済んだことへの安堵を込めて、紗希は篤にこう言った。


「あなたが死なずにいてよかった、その気持ちは今も変わりません」


(篤お兄さん……)


 昇吾がこの世でただ唯一の、本当に完璧な人間に見えてしまって、ずっと篤は苦しんでいたのだろうか。


 ひょっとすれば。そんな思いから、紗希は篤にようやく声をかけた。


「本当はあの防波堤で、私じゃなくて、昇吾さんに、助けてほしかったんですね」


 思いがけないことを言われたとばかりに、篤が呆然と紗希の方を見つめる。


「そんなことはない。僕は紗希ちゃんに……」


 助けられたんだ。そう続けようとした篤の唇は音を紡ぐことはなく、口元からは吐息が漏れるだけで終わった。


 彼は震えながら自分の唇を触る。もう一度声を出そうとして、かすれた吐息が漏れた。


「僕は、ぼくは……!」


「白川さん。もう一度よく、考えてみてください。私はかつてあなたを、助けたのかもしれません。あなたにとって、自分を救う大切な存在に見えたのかもしれません。けれど、あなたが本当の本当に会いたかったのは……昇吾さんだったはずです」


 篤の膝から力が抜け、彼はその場に崩れ落ちる。


 彼の首はわずかに横に振られ、否定の意を示していた。


 だが座り込んだまま動けないその姿からは、紗希の言葉が真実だと示している。



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