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第5話 元悪女は、敵対する(2)


 須藤の全身が大きく震えだす。脂汗がにじみだし、真琴が近づくのをひどく恐れているようだった。


「や、やめなさい!」


 紗希は慌てて止めようとしたが、真琴がちらりとこちらを見た瞬間、体がピタリと動かなくなる。


 同じ感覚に覚えがあった。そうだ、軽井沢の駅で、新幹線から降りた瞬間に体の自由が利かなくなった時と、まったく同じだ……。


「真琴さん、あなた、いったい何を……?」


 紗希が尋ねるが、真琴は答えなかった。

彼女と正面から対峙する須藤の目からは、激しい恐怖が読み取れる。須藤は真琴の行動を受け入れているわけではないのだ。


呆然とする紗希を無視して、真琴は須藤から視線をそらした。真琴は小さく舌打ちをする。


 紗希は相変わらず、自分の体を動かせない。真琴はそんな紗希をあざ笑うように、鼻で笑った。


「嫌になるわね。私のように自由に力を使えるわけでもないくせに、ただただ、可能性があるってだけで、あなたは優遇されるんだもの」


「どういう意味? 優遇なんかされていないわ! 私はただ……」


「それよ。それが気に食わないのよ!」


真琴が紗希の言葉を遮って叫んだ。


「あなたはいつだってそうだわ! 私の欲しいものを全て持っているくせに、それを自覚しないでのうのうと生きてるのが許せないのよ!」


「……真琴さん?」


「ああもう……本当にイライラするわね。あなたみたいな人間を見ると、壊したくなるわ」


 すると、ニタリ、と真琴の唇がめくれ上がった。


「でも、もうこれで最後。あなたは、裏切り者の悪女として、堕ちていくだけなんだから」


 真琴がエントランスから出ていく。紗希の体が動いたのは、彼女の気配がまったく感じられなくなってからだった。


「っ、須藤さん!」


 大慌てで須藤の元へ駆け寄ろうとする。だが真琴に抵抗しなかった須藤は、紗希には口角から唾を吐きながら腕を振り回した。


「近づくな! この、疫病神が!」

「っ!」


 須藤は紗希を睨みつけながら、なおも叫んだ。


「お前なんか、お前なんかと契約しなければ! くそ、くそっ!」


 血走った目で虚空を見つめる彼は、やがて意識を失った。初美も悲鳴を上げて、須藤に駆け寄る。

 慌ててスマートフォンで救急車を呼びながら、紗希は呆然とするしかなかった。


(何が起きたの?)


 真琴の言葉を思い出す。彼女は確かに言ったのだ。『もうこれで最後』と。

 前世では真琴が、あのようなふるまいをしたことは一度もない。実際、真琴の本性を紗希はすべて知ったつもりでいた。だから今まで真琴のそばに寄らないようにしていたし、彼女の行動を逆手に取ろうと動いてきた。


 だがもしも、前世でも誰にも見せていない秘密が真琴にあったとしたら、どうだろう。

 あの憎しみに全身を焼き尽くされたような姿こそが、真琴の本当の姿だとしたら。


「私は本当に……何を信じたらいいの……?」


 紗希は呆然としながら、須藤の無事を祈ることしかできない。


 しばらくして落ち着いた須藤だが、紗希には相変わらず『契約違反』だとして、退去以外の選択肢を認めようとしなかった。


 世話になったビルだ。真琴の言葉も大いに気になる。


 紗希はついに観念した。


「分かりました。莉々果に後の話を任せることにします」

「ああ、そうしてくれ!」


 叫んだ須藤は、まるで魂を抜かれたかのように、その場で動かなくなった。刻々と老いゆくように、顔色が冴えなく、瞳には虚ろな光だけが宿っていた。


「初美さんも、ありがとう」


「紗希さん、あの。荷物は?」


「莉々果なら悪いようにしないと思います。本当に大切なものはコピーを持っているから……そのままにしておいてください」


「分かりました」


 紗希は須藤に一度だけ頭を下げ、ビルを出る。


 事務所に重要な書類や大切な機材はいくつか残されているが、真琴の意味ありげな言葉や、彼女から感じた違和感が紗希を遠ざけた。


 冷静さを装いながら、紗希はスマートフォンを取り出す。


「そうだ、防犯カメラ……」


 アプリを起動する指先が震えている。紗希は深呼吸しながら、映像を確認した。


 そこには、まるで悪夢のような光景が広がっていた。


 黒ずくめの男たちが、彼女の部屋を荒らし、物色する。映像を見た瞬間、紗希の全身は髪の毛の先まで震えてしまいそうな冷気で包み込まれた。


 映像に音声は入っていない。だが荒々しく開け放たれるクローゼットから、紗希が自宅に残してきたいくつかの日記帳が取り出された瞬間、壮絶な吐き気が込みあがった。

 なんと彼らは日記帳の内容を映像や動画として記録しはじめたのだ。


 そしてジュエリーボックスにしまい込んだ、昇吾が買ってくれた真珠のイヤリングが取り出される。

 彼らは他のジュエリーには目もくれず、そのイヤリングだけをまるで壊すかのように地面にたたきつけた。


 単純な強盗ではない。金目のものではなく、紗希の思い出の品に手を付けている。

 こうしてはいられない。一刻も早く、現状を突き止めなくては。


 急いで自宅へ戻る道すがら、紗希は警察にも通報を入れた。映像という証拠もある。


 紗希はタクシーを捕まえると、口早に指示を出す。


「すみません、この住所にお願いします……」


 走り出したタクシーの中で、紗希は莉々果へメッセージを送った。


《莉々果。事務所にはしばらく立ち寄らないで、スケジュールもキャンセルするわ。》


 手短に送ったメッセージに、既読がつく。


《紗希ちゃん、どうしたの?》


《お願い。とにかくしばらく私に連絡しないで》


《なに? どうしたの、本当に?》


 説明しようとして、ほとんど何も言えないことに紗希は気が付いた。


《いきなり事務所から追い出されたの。何か変なの》


《誰に?》


《須藤オーナー。真琴も来た。彼女は何がしたいの?》


 そこまで送信したところで、蘇我家の前にタクシーが止まった。

到着した蘇我家は、朝と同じく不気味なほど静まり返っていた。何なら、警察車両の姿もない。


 あれだけ黒づくめの男たちは暴れていたのだ。和香が警察を招き入れていてもおかしくないと思ったのだが、何故いないのだろうか。


 不安に思いながらも、紗希は蘇我家の門を潜った。



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