たっぷりと睡眠をとり、久しぶりにすっきりとした目覚めを迎えた紗希は、カーテンを開け放つ。
朝の陽ざしを浴びながら、いくつか頭の中で考え事を整理した。
妹の明音はまだ大学生だ。夏休みの間、前世通りであれば彼女は実家とクラブを行き来し、パーティーに明け暮れる日々を送る。
父親の俊樹より、蘇我不動産に入社できるのだから、就職活動は不要と言い渡されていたからだ。
また蘇我不動産もお盆期間は夏季休業に入る。紗希は蘇我家の邸宅に帰らないようにいくつかスケジュールを入れることにした。
すると、スマートフォンに着信が入る。昇吾からだった。
「おはようございます、昇吾さん」
昨夜の続きだろうか。そう思いながら電話に出ると、予想通りだった。
内容は予定の確認だ。十一月にある青木産業のCM制作発表会のパーティーへ、紗希も参加してほしいという。
昨夜は仕事の兼ね合いで一旦電話を切る必要があったそうだ。
軽井沢からの帰りだ。何か早急な対応が必要だったのかもしれない。
紗希はほんの僅かではあるが、昇吾からの言葉を前向きにとらえられるようになっていた。
(慎重に事を進めるべきだけど、不安に飲まれる必要はないものね……)
電話を終えた紗希は、即座に着替えを済ませる。
早朝の蘇我家は、不気味なほど静まり返っていた。寂しく思いつつも、紗希は仕方がないとも感じている。
残念ながら、蘇我不動産の経営は芳しくない。
紗希が昇吾と結婚し、青木産業の傘下に入るのを心待ちにする声も聞かれているが、果たしてどうなるだろうか。
「おはよう、和香さん」
「おはようございます、紗希お嬢様。本日は小田様とのお約束があると伺っておりますが?」
慣れ親しんだ一人きりの朝食の席へ着きつつ、紗希は和香からの問いかけに頷いた。
「ええ。今日は遅くなると思うから、タクシーは使わずに事務所へ泊まるつもり。それから、お盆休暇の間は逆に配信回数を増やしたいの。こちらに戻らないことも増えると思うわ」
「承知いたしました」
頷いた和香がテキパキと朝食の用意を進めていく。
朝食の席に、家族が揃うことはほとんどない。少なくとも明日香は早々に会社へ出向くし、明音は朝食は食べない方針のようだ。俊樹については……紗希はほとんど気にかけたことがなかった。
食事を済ませた紗希は自室に戻り、衣服や化粧品をキャリーケースへ詰めた。
ふと思いつき、棚の奥へ手を伸ばす。中学生ごろの紗希の記憶が残り、白川篤からの連絡先のメモが挟まれた、あの古い日記帳だ。
一応納得したとはいえ、母親の死因を紗希が誤解していたように、記憶違いが今後も発覚する可能性はある。
(それに誰かが部屋に入るとも限らないし……)
実家ではかえって落ち着かない。もっと深く読み込めるように、荷物の中にそのまま入れた。
玄関先に立った紗希は、くるりと振り返る。
「じゃあ、和香さん。行ってきます」
「はい。いってらっしゃいませ」
玄関を出て、紗希は最寄り駅を目指した。
涼しかった蘇我家の邸宅に比べると、むわっ、とした暑さが肌を刺す。薄手かもしれないと危惧したシフォン素材のブラウスは、あっという間に汗にまみれてしまいそうだった。
事務所のあるビルへ到着し、受付スタッフの初美に声をかける。
「こんにちは、初美さん」
初美はギョッとした顔で紗希を見ると、大慌てで手招きをしてビルの外へと連れだした。
「なんで普通に来ちゃったんですか!?」
「えっ、何の話?」
「まさか何も聞かされていないんですか?」
険しい表情をする初美は、ちらちらと周囲を見回してから、紗希をトイレに誘う。
戸惑いながらも後へ着いていくと、初美は紗希にA4サイズの書類を手渡した。
そこには『強制退去について』という文字が記載されている。紗希は思わず、目を見張った。
「今朝、突然、オーナーから紗希さんがビルの事務所を契約違反な使い方をしているから強制退去させるっていう話があったんです。変だなって思って、一応メールをコピーしたんですよ。何も聞いていないんですか? 本当に?」
「聞いてないわ! どういうこと? 賃料の未払いももちろんしていないし」
そう話をしていると、外から大声が響いた。
「ちょっと、蘇我さん。いるんでしょう!?」
初美が蒼ざめた。
「オーナーです!」
ビルのオーナーは男性だ。女子トイレに無理やり入ることは、確かに難しいだろう。だから初美は機転を利かせて、紗希を女子トイレに連れてきたのだ。
「ありがとう。初美さんは出てちょうだい。私がトイレに連れて行ったと言って」
「紗希さん、でも」
「大丈夫。いざとなったら……どうにかなるわ。なんであれ、死ぬよりはマシよ」
本心だった。
初美が振り返りながら、トイレを出るのを確認し、動揺しながらも紗希はクラウド保存しておいた賃貸借契約書を確認する。
契約終了を伝えるには、適切な手続きとして三十日前に通告するようにと記載があった。三十日前のメールを片っ端から確認してみるも、オーナーからの連絡は存在していない。
つまり、紗希は不当な解約を迫られている。
「大丈夫、落ち着いて」
深呼吸を繰り返してから、紗希はトイレを出る。
すると。怒り心頭、といった表情のオーナーが紗希を睨みつけていた。小刻みに呼吸をしながら、口元を手で触っている。
「こんにちは、須藤オーナー。どうしましたか?」
「どうしたもこうしたもない。契約違反だ。男を何人もつれ込んで!」
「何人も? いつ、どのようにそんなことを行ったか教えていただけますか?」
「これだ!」
紗希の眼前に写真が突き付けられる。そこには、確かに紗希が男性たちを部屋に入れる様子が映し出されていた。
しかし。男性たちが昇吾や均ならまだしも、まったく見覚えのない男ばかりだ。
「写真はどなたが提供したのでしょう?」
「契約違反をした人間に教える筋合いはない!」
突っぱねるように言う須藤だが、目の動きが明らかに泳いでいる。
誰かに言わされているのだ、と、即座に紗希は理解した。
「分かりました。では今後は弁護士を通じて話をすることにしましょう。私は契約違反の通知を受け取っていませんし、それに共同契約者である小田さんにも連絡をすべきでは……」
「その必要はない!」
須藤が大声をあげた。
無茶苦茶だ。燃え上がる怒りに紗希が言葉を重ねようとした、その瞬間。
プライベート用のスマートフォンが、激しく振動した。須藤の唇がめくれ上がり、ニヤリ、とした笑いを浮かべる。
「見た方がいいと思うが?」
何を言いたいのだろう。しかし紗希も、この通知音は気がかりだった。
ゆっくりとスマートフォンを取り出し、画面を見る。
画面には、ホームセキュリティー用の防犯カメラからのプッシュ通知が何度も表示されていた。
紗希が自分の部屋に、万が一、を考えて仕掛けたものだ。
防犯カメラには『人』を優先して通知するように設定してある。
プッシュ通知の頻度は尋常ではない。それだけの回数、人がカメラの前を移動しているということになる。
「これでいいだろう? いいんだろう……?」
ぶつぶつと呟く須藤がふらつき、エントランスのソファに座り込む。紗希は何が起きたのか全く分からないまま、須藤に駆け寄ろうとして、ハッとした。
覚えのある気配が、紗希の背筋を震わせる。
「お久しぶりね、紗希さん」
柔らかな声が響いた。
「……真琴さん」
華崎真琴。彼女はその魅惑的な美貌に笑みを浮かべて、エントランスの奥にある事務室から現れた。
初美が悲鳴を上げかけたが、即座に口を閉ざす。真琴が、ぱちり、とウインクをしただけで、まったく体の自由が利かなくなったように座り込んでしまった。
「どうしてここに……」
紗希の問い掛けに、真琴は肩をすくめた。
「私、宣戦布告に来たのよ」
「宣戦布告?」
「ええ。もう猫被っているのも嫌になってきたわ。ちょっとあなたが大人しくなっただけで、昇吾まで取られるなんてうんざりだもの」
真琴はそう言いながら、須藤の前に立った。