あの日差しを思い返しながら、昇吾は空のグラスをぼんやりと見つめる。
軽井沢を出たあと。紗希に電話をかけるまでは、静枝からの激励が昇吾の心を温めていた。
だが、紗希の心を通じて理解したのは、篤が向ける気持ちの重さと自分にはできそうもないほど真摯な告白だ。
「……本当に篤は紗希さんのことが好きなんだな」
ライバルとして過ごした年月があるからこそ、生半可な気持ちから篤が想っているわけではないと理解している。
思いがけない伏兵に、昇吾がため息を改めてつこうとした、その時だった。室内にスマートフォンからの着信音が響く。
「均からか……」
なんとなく良い知らせの気がしない。
昇吾はそっと手を伸ばした。
「どうした、均」
『悪い、夜遅くに。新しい情報が手に入ったんだが、その延長戦でうちの親父と喧嘩してきた。直接話したいんだが、いいか?』
均の声がどこか荒い。ギョッとして、昇吾は言葉を重ねる。
「直接?」
『ああ。今、お前のレジデンスの前まで来ている』
「分かった」
昇吾は思わず立ち上がり、即座にエントランスのスタッフへ連絡を繋げた。
スタッフからは「ちょうどお問い合わせしようと思っていたところです」と、何とも驚いたような声色でいわれる。
真琴への違和感が強まり、紗希への度重なる妨害があってからというもの、均には危ない橋を渡ってもらっていた。
宮本家が何を目的に動いているのか、その本心を探ってもらうのだ。
「それで? 何があったんだ?」
部屋へと招き入れた均は、どこか青褪めた顔をしていた。ただし、ケガをした様子はなく、着衣にも乱れはない。
少しだけ昇吾はホッとした。
「……それを話すには、まず、お前に謝らなくちゃならない」
均は、なんと床に膝をついて座った。彼は大きく息を吸い込んで、一気に吐き出す。
「悪い、昇吾。俺はかつてお前と友達になった時、そもそも親父の力でお前と仲良くなるよう強要されていたんだ」
昇吾は黙っていた。均が最後まで何を言いたいのか聞くことに、全神経を集中させていく。
「お前にも『絡繰』の力は分かっていると思う。だから、俺は最初、自分の意思とは無関係にお前の友達になったんだ」
昇吾の中で二つの感情がぶつかり合う。
均が俺と仲良くなった理由は、父親から強要されたから?
そんな馬鹿な話があってたまるか!
いいや、可能性として考えなかったわけではない。宮本家の力を考えれば、ありえる話だ。
昇吾が先を促すと、均が続ける。
「……本当にすまないと思っている。でも、今は昇吾の友人としての立場に強く誇りを抱いている。ここは俺が、自分で働き、自分で考え、そしてたどり着いた場所だ。絶対に手放したくない。だから親父と決裂することにしたんだ」
「そうか」
昇吾は、それだけを言った。それ以上の言葉は、今は必要なかった。
結論を急いではろくなことにならないだろう。
「それでな」
均が言いよどむ。昇吾は彼が言いかけた言葉の続きを、すでに察していた。
「家に逆らったことで、親父の怒りを買ったのか?」
「当然だろ。でも、俺はもう後戻りできない、いいや、したくないんだよ」
正座に近い姿勢になりながら、均は小さく笑う。どこか自虐的な笑いだった。
「昇吾。お前は今も、真琴を愛しているか?」
「恋愛という意味ならNOだ。そもそも、俺の彼女への愛は、友愛に近いと分かってきたんだ」
「友愛でもいい。少しでも、情はあるか?」
「情、は、あるだろうな。少なくとも彼女は俺にとって代えがたい幼馴染だ」
深々とため息をついた均に、なぜか昇吾はぞくりとした寒気を感じ取った。
「いいか。まず、真琴は華崎家の娘じゃない。宮本総一郎、俺の親父の隠し子だ」
昇吾は息を呑んだ。均の声はどこまでも淡々としている。
「……隠し子だって? 真琴が?」
「そうだ。俺はこの事実を知っていた。だが、あえて言う必要はないと思って、黙っていた。なぜなら、結果として昇吾が幸せになれると思ったからだ」
眉間を揉みながら、昇吾は頭を振る。紗希の本心が聞こえるようになる前の自分なら、親友の心遣いに感謝していただろう。
均は緩やかに、静かに話を続けた。
「少しずつ、事情が変わり始めたのは、真琴がお前と同じ学校へ入学する前だ。自分が宮本家の生まれだと知らされ、さらに総一郎からある取引を持ち掛けられた。青木昇吾の恋人となれたら、宮本家の実子として認めるという取引だ。真琴はお前自身を愛しているわけじゃない。真琴が大事なのは、どこまでいっても自分自身なんだ……」
言葉を失うとはこのことか。昇吾はただひたすらに、均の話を聞くことに集中していた。
めまいがする。込みあがる感情が怒りなのか、恐怖なのか分からない。
怒りだとしたら誰に? 間違いなく真琴だろう。
では、恐怖とは? 自分自身に対する恐怖か、それとも均に対するものか。
「じゃあ、真琴は、俺自身を好いているわけではないんだな」
かすれた声で問いかけると、均から返ってきたのは無言だった。肯定の意味だ、と分かったとき、昇吾はとうとう耐えかねて声をあげた。
「君はそれを知っていて、ずっと俺の秘書をしていたのか?」
「ああ。知っていた」
「なんて奴だ──」
呻くように呟いて、昇吾はソファに座り込む。そんな彼に、均は立ち上がることなく、ただただ頭を低くしていた。
均の言葉を全面的に信用するなら、真琴は今まで昇吾に対し自分の利益のために近づいてきたことになる。
そして均は、その事実を黙っていたのだ。
信頼していた二人からまとめて裏切られた気持ちになり、昇吾は自分が冷静に物事を考えられているのか、ひどく疑わしい気持ちになった。
テキーラを飲んだことを後悔する。酔っていなければ、もう少しまともな思考が働いただろうに。
「新しい情報というのはそれだけか?」かすれた声で昇吾は尋ねた。
「いいや」と、均が首を横に振る。彼はまっすぐに昇吾を見上げ、続けた。
「違うんだ。うちの親父は真琴に宮本家の実子にする代わり、お前の恋人になるように命じ、その通りに仕立てたんだ。だが、家同士のつながりを求めるなら、もっと正攻法があるだろう?」
確かにその通りだ。昇吾は我に返った。
宮本家が青木家とのつながりを求めるのなら、華崎家から真琴を引き取っても問題ないだろう。なぜ、わざわざ、宮本家の実子にしてやるというエサをぶら下げて、真琴自身がそう選ぶように仕向けたのか。
「親父は自分の持つ力を受け継ぎ、更なる力を発揮できる子供を欲しているんだ」
「更なる力?」
「たとえば『絡繰』と『心読』の力を同時に使える人間がいたとしたら、どうなると思う」
宮本家の『絡繰』は、相手の感情を読み取り、先回りして言葉や行動を投げかけることで思い通りに動かす技術だ。
そして青木家の『心読』は決して高い確率で産まれるわけではないが、相手の心を読む力が備わる可能性がある。
──この二つが合わされば、どんな人間でも操れるのでははないか?
昇吾は唸った。宮本総一郎の狙いはそれか?
だが、宮本家は巨大な企業としての地盤を有している。総一郎本人も、著名な経営者としての名声をほしいままにしていた。
リスクを冒してまでも、さらなる力が必要であるように思えない。
すると、均が昇吾の考えを察するように、首を横に振った。
「権力どうこうじゃない。親父は新たな力を追い求めているだけなんだ。そして今、紗希さん、彼女を狙っている」
「なぜ?」
「昇吾。お前は知ってるんじゃないか。紗希さんは『前世』の記憶を持っているって」
昇吾は思わずソファから立ち上がった。
「何を言って……」
落ち着け。昇吾は自分に言い聞かせた。
紗希の心の声からその可能性を読み取っているのは、自分自身だけのはずだ。
だが、均の言葉に、その努力は無に帰した。
「彼女のここ最近の変化と、蘇我家の血筋から親父は……宮本総一郎は、そう推測している」
血筋。
短くも自分に『心読』の力が発動しているだけに、否定しきれない言葉に、昇吾は呻く。
だが、それが宮本総一郎にとってどんな意味を持つというのだろう?
いや、まってくれ。子供を望んでいるだって。
おぞましい可能性に、昇吾は思わず均の顔を見つめた。彼に視線を合わせるようにソファから降りて、ゆっくりと膝をつく。
「もしも俺の想像が違うなら、違うと言ってくれないか」
昇吾がそう切り出したので、均は静かにうなずいた。昇吾は顔中の筋肉が強張るのを抑えながら、静かに尋ねた。
「まさか。総一郎氏は、紗希さんに、自分の子供を産ませようと画策しているのか?」
ゆっくりと均が、大きく、はっきりと頷いた。
昇吾は絶句する。自分でさえこれほどショッキングなのだ。実の父親の考えを悟ったとき、均はどんなことを考えたのだろう。
想像することさえできない。
「真琴が華崎家の娘のままで、眼前にエサをぶら下げられたまま泳がされているのは、単に隠し子だからというわけじゃない。総一郎が欲している『死に戻り』の力を持たないからだ」
「待ってくれ。いや、待ってくれも何もないが『死に戻り』とは、その……」
「言葉そのままの意味だよ。一度死んだ人間が、過去の自分と入れ替わるようにある一定の時期に戻るんだ。おとぎ話にしか思えないだろうが、蘇我家がかつて大いに繁栄したのは、そのためなんだよ」
もしも『絡繰』の力を持つ人間が『死に戻り』がおこなえるようになったら、どうだろうか。一度目の生涯で自分にとって悪い存在を把握し、二度目の生涯ではよりよい人生になるよう操ることで、とんでもない利益を産み出せるだろう。
ごく一般の家庭ならまだしも、宮本家ほどの巨大な財力を持つ家の人間ならば、その影響力は計り知れない。
(まさか、母さんもこのことを知っていた。あるいは、何か感づいていたのか……)
可能性はある。
母親が自分を呼び出し、わざわざ紗希との将来を考えさせたのは、表向きには行動を起こせないからこその親心だったのかもしれない。
「それで、均。お前はどうするんだ」
「昇吾が幸せならそれでいいと思っていた。真琴と将来子供をもうけたとしても、お前なら親父の手をかいくぐると思えたから。だが、もう黙ってはいられない。親父を止めるべきだ、そう思う」
親友の心強い言葉に、昇吾は頷く。
均は彼の頷きに「俺は彼女の家の入り婿になる。前から相談していたんだ」と続けた。
昇吾は思わず首を傾げる。紗希や真琴のことではないのは確かだ。
「彼女? 誰のことだ」
「あぁ。付き合っている女性って意味の彼女だよ」
「……なんだって?」
「だから、付き合っている女性。今度手続きはするけど、今後は小田っていう姓を名乗るからな」
昇吾は目をぱちくりとさせ、それからゆっくりと首を振った。
「聞いていないぞ、均」
「そりゃ、言ってないから」
昇吾は額に手を当ててため息をついた。それから顔を上げると、ソファに深く座り直す。
「いつからだ?」
「二年くらい前かな」
「俺の知らない女だな?」
昇吾の口調がどこか恨めしげで、均は思わず笑ってしまった。昇吾もつられて笑う。
考えることは山積みだが、少しだけ気が抜けた。
(まずは、紗希さんに朝いちばんに連絡を取ろう……)
昇吾はそう考えたのだった。