突如、指先に暖かくなめらかな、ティーカップの質感が感じられた。
紗希は目を見開いた後。目の前の光景が信じられず、思わずカップを取り落とす。がちゃんっ、という音が、室内に響いた。
「お嬢様、いかがなさいましたか?」
そんな先に声をかけたのは、執事を務める華崎和香……。
かけた声の内容とは裏腹に、彼女は慌てた様子でカップを手に取り、割れていないかを確かめる。
まるで……紗希のことはどうでもいいような振る舞いだ。
以前の紗希なら、そんな和香に「わたくしを心配するのが先ではなくて!?」と叱責をしていただろう。
だが今の紗希は、状況を把握することに必死だった。
零れた紅茶の香りに、確かになじみがある。
上品で甘みのある香りをもつ、セカンドフラッシュのダージリン。一匙で何千円とする高級な茶葉をたっぷりと使い、契約牧場から取り寄せたミルクを注ぐのが、紗希が好む淹れ方だ。
黙ったままの紗希を見てか、様子をうかがう和香と視線が合った。
「今日は何月何日かしら?」
出来る限り声が大きくならないよう、注意して紗希は問いかけた。
「……本日は五月十日。時刻は午後十五時二十三分にございます」
「ごめんなさい。
「……令和元年の、五月十日でございます」
「そう。そうなの、ありがとう」
紗希は驚愕に震える。あの河原で倒れ込んだ日時から考えると……およそ五年前に紗希はいた。
紗希は席を立つ。
「ごめんなさい。友人の莉々果と会う約束を思い出して、思わずカップを落してしまったわ。カップが割れているようならお父様に報告いただいても結構よ」
「え、あの、お嬢様……」
「気にしないで頂戴。そうそう、それから、昇吾さん……いえ。青木様から連絡が来たら、まずは貴女が受け答えをしてくださる? わたくし、いくら婚約者とはいえ、青木様の都合も考えずにはしゃぎまわっていたわ」
微笑を浮かべる紗希に、和香は黙りこくったまま、信じられないものを見るような視線を送ってきた。そんな彼女の様子に、妙に冷静な気持ちで紗希は納得する。
(そうか……そういうことだったのね……)
和香は、代々蘇我家に仕える
そして。青木昇吾と愛を育み、皆から祝福を受けた、華崎真琴の義理の母親でもある。
そんな人物の前で、紗希は真琴のことを貶め、昇吾との結婚を押し進めたのだ。いくら何でも、紗希を嫌うのに十分な理由となるだろう。
家族にしてもそうだ。圧倒的な財力と権力、そして人脈を有する青木家のトップに煙たがられる紗希は、家の荷物だったに違いない。
理解したとき。紗希は、強く誓った。
とにかく。私は……この物語では、華崎真琴に関わらない。
そして青木昇吾と婚約を解消しよう。
例えどれほど、彼を愛していたとしても……。