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第4話 絡繰りの糸は紡がれる(1)


 8月の半ば。

 大学に通う明音のみが残される蘇我家の邸宅は、ひっそりと静まり返っていた。明音の両親……つまり蘇我俊樹と明日香は、会社でせわしなく働いている。


  紗希はここのところ、事務所に泊まり込みが続いていた。


 理由は分からないが、少なくとも明音には好都合だ。


「はぁ。いずれは私もどっちかに収まるのかしら? そんなの嫌なんだけど。……っと、そろそろ真琴との約束の時間ね」


 明音は庭師が通う回数が減らされて久しい庭園を通り抜け、こっそりと華崎家の裏庭に入る。慣れた道を通り、明音は華崎家の裏口から中に入った。即座に、声が響く。


「……真琴、いい加減にしなさい!」

「あら、久しぶりに聞いたわね、私を叱る口調だわ! 懐かしい!」


 からかうように笑う真琴が、優しく和香へ話しかける。その柔らかな声には、いつも通りの愛嬌がありながらも、どこか冷酷な響きがあった。


 明音がこっそりと見つめると、和香はいつも冷静な横顔に焦りがにじむのを理解する。真琴との会話は、和香にとっていつも一筋縄ではいかないものだからだ。


「ねぇ。ずっと言っていたわよね。あなたは私の娘じゃないけれど、ずっと面倒を見るって……」


 和香の胸に、感情に基づく鈍い痛みが走る。真琴の言葉は確かに事実だ。


 ずっと世話になってきた蘇我家に、なにより和香にとって大切な家族である『琴美』に恩返しができるチャンス。そう思えば、和香にとって真琴を家族の一員として育てることは道義であり、義務だった。


 蘇我家の繁栄を守り、秩序を保つためには、真琴の存在は重要な要素だった。


「そうよね? だって、そうじゃなかったら、蘇我不動産のトップが未成年者を妊娠させただなんてスキャンダルが明るみに入るはずだもの」


 くすくすと笑う真琴の声に、和香は一切反論しなかった。事実だったからだ。


「最低な男よねぇ、蘇我俊樹って」

「口を慎みなさい! 急に帰ってきたかと思えば。……何が言いたいの、真琴」


 冷ややかに言いながらも、和香の内心では焦燥感が広がっていた。ひどく不穏な気配を漂わせ、真琴が言う。


「そんな最低な男の娘である紗希が、最低じゃない保証なんてどこにあるのかしら?」


 みしり。和香の中にある何かが、軋む。


「いい加減にして。紗希お嬢様は……」

「現に。彼女は私と昇吾さんの関係に、フラフラとちょっかいをかけにきたでしょう? 婚約者っていう立場だけで、愛されてもいないのに!」


 婚約者なのだから、真琴と昇吾が仲睦まじくすればするほど、苦言を呈しに行くのは当然だ。

 そう反論しようとした和香だが、声が出ない。


「ねぇ。私の声を聞いて? 貴女の大切な、娘の声を……」


 真綿で包む様な真琴の優しい声が、和香を包んでいく。柔らかく、甘く、ふと耳を傾ければそのまま聞き入ってしまいそうな、魅力に満ちた声だった。


 蘇我家の執事として、華崎家の女当主としての気力で、何とか和香はその場に踏みとどまっている。義理の娘として育ててきたにもかかわらず、和香は真琴に対し、明確な恐怖を感じていた。


(くじけちゃだめ……私は、わたしは蘇我家の執事よ……)


 しかし、次の真琴の言葉は、和香の心を打ち砕いた。


「昇吾がどうも私を避けているのよね。だから貴女じゃないと分からないのよ。……教えてくれるわよね? ?」


 和香は体を震わせた。その一言が、和香が執事という立場と理性で押し殺していた感情を、一気に引きずり出す。


 体が思うように動かない。真琴の言葉が、心の奥底にある秘密を突き崩していく。


── 紗希は、確かに何かを隠している。


 和香の中にある疑念が、真琴の問いかけによってさらに増幅していく。だが、それを認めることは許されなかった。蘇我家の執事として、家を守る立場として、和香はそれを表に出すことができない。


 すると、和香の中に後悔が押し寄せてくる。自分の愛する真琴に、真実を告げることができない自分自身に対する深い後悔だった。


 愛する大切な娘、血のつながりはなくとも愛しい真琴の質問に答えない。それで本当にいいの?


 自問自答するのがやめられない。だが、それでも和香は必死に声をあげないようにしていた。


(流石、宮本の直系……とんでもない力だわ……!)


 今の和香の中にある疑念や後悔は、真琴が『絡繰り』の力で噴出させたものだ。少しのきっかけ。たとえば目線を合わせて真琴の持ち物を拾うような行動をするだけでも、彼女は相手に自分の意図する行動や発言をさせることができる。


 その時、ふいに背後から明音の声がした。


「あら。和香、ごめんなさい。真琴とお話中だった?」


 明音がその場に現れた。彼女は和香をじっと見つめている。


「あ、明音お嬢様?」


 驚いて声をあげる和香に、明音は楽しそうに話しかけてくる。


「お姉さまがね、つい最近、白川篤さまとお会いしたみたいなの。お姉さまったら、昇吾さんという存在があるのに……どうしてなのかしら?」

「……白川?」


 和香は動揺し、心の整理が追い付かないままに答えた。


 白川篤。彼は紗希が過去に命を救った人物だと、和香は知っていた。そして、紗希が彼と再会し、母の死について話をしたということは紗希からも聞いている。


 明音の言葉には一部だけ、真実が含まれている。その真実が和香の動揺を増幅し、彼女の冷静な部分を抑えつけていくのだった。


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