恋をした瞬間を思い出すことは、顔から火が出るほど恥ずかしい。
紗希は身もだえしそうになりながら、ベッドに戻る。
だが、もしもこの想いまでも折れてしまったら、果たして自分はどうなるのだろうか。
(……結局、何も解決しなかったわね。どうして私が2つの死因を覚えていて、どちらも真実の記憶だと疑っていなかったのかは解明できなかった……)
紗希は日記のページをめくる。婚約から1年後の、パーティーの折のことが書かれていた。
脳内で紗希の記憶が鮮やかによみがえる。昇吾の隣に立っていた、それは美しい黒髪の美女……華崎真琴。
「真琴お姉ちゃん……そうだ、私、このころはまだ真琴お姉ちゃんって呼んでいたんだわ……」
日記をめくる紗希は、その記述に目を留めた。
乱暴な、鉛筆をへし折りそうな強い筆圧で書かれたのは『真琴お姉ちゃんの嘘つき』という言葉。
「……私、真琴さんとは、どんな関係だったのかしら」
鈍い痛みが、紗希の頭に広がる。
華崎真琴……彼女は華崎家の娘として、何度もこの家に足を運んでいる。そもそも和香の娘なのだから、当然だろう。紗希も幼い頃は真琴と交流があったのかもしれない。
じわり、じわり。黒いインクが紙に落ち、広がっていくように、紗希の内心に不安がにじんでいく。
昇吾の反応も、篤の変化も、明音や和香の違和感も、すべてが紗希を困惑させる。
人は何かを思い出すとき、改めてその中身を記憶しなおすという。記憶を確認したことで、自分が知らなかった新しい情報や出来事が分かった場合、この新事実に基づいて記憶を何度も修正していくそうだ。
今日まで紗希は何度も前世を思い出し、記憶しなおしてきた。
なぜなら、これから起きる未来であっても、今の紗希にとっては『過去』と言える出来事だ。死に戻りにより、紗希は5年前に戻ってきてしまったのだから。
(何度も何度も、思い出したおかげで……お母さまの死因という重大な出来事までも、私の脳が記憶を修正している可能性がある? ……)
すると、手元のスマートウォッチが振動する。
ハッとして、紗希は思考の海から浮上した。酸素を意識してたっぷりと吸うと、視界がクリアになる。
「……まぁ、昇吾さんからメール。そういえば、昼間のメールに返事をしていなかったっけ」
急いで紗希はプライベート用のスマートフォンを開く。昇吾からのメールには、紗希のことを気遣う文面が書かれていた。
「『仕事が忙しいときに、すまない』ですって……」
思わず笑ってしまった紗希は、ポケットの中にある篤の連絡先のことも思い出す。どうするべきだろう、と思いながら指を滑り込ませると、連絡先が書きこまれた紙はしわくちゃになっていた。
紗希はその紙を考えた末に、過去の日記帳に挟み込む。ここなら、人が目にする機会はかなり少ないだろう。先ほどと同じ場所に日記帳を戻した紗希は、昇吾からのメールに目を向けた。
改めて添付された画像を見ると、美しい緑に包まれた青木家の別荘だった。昇吾の姿はなく、昇吾自身が撮影したであろうことが伺える。
「まあ。きれい。まさに夏の軽井沢ね!」
紗希は声を弾ませた。すぐさま返信を打ち込む。仕事ですぐには返事ができなかったこと、どうしても集中したい内容があったこと……そして。
「……白川様のことも、一応伝えた方がよいかしら」
ふと、考えた。告白されたことはもちろん伏せておきたい。
しかし一方で、まるで昇吾と青木家に対して挑むような言葉が気にかかる。
茶会で白川家の実質的なトップである偕成が言い残した『これは篤も苦労するかもしれんなぁ』という言葉にも、今日の篤の行動が関連しているかもしれない。
「……『本日、白川篤様にお会いいたしました。昔、とある事情でしばらく一緒に過ごした時期があり、その当時のことを懐かしく思われたようです。』これなら嘘は言っていない、わよね?」
昇吾からどのような返信が来るのだろう。紗希は少しだけ怖さと、一方で何かワクワクとした気持ちがあった。
返信は紗希が思っていたよりもかなり早くに来た。
「えっ、もう? ええと『電話をしてもいいか? 11月末に出てほしいパーティーがある』……?」
それで昇吾がメールを2通もくれたのか。紗希はそう考えた。軽井沢のことはあくまで、軽い挨拶に過ぎなかったのかもしれない。
了承の返事を送ると、即座に昇吾からの電話がかかってくる。
『もしもし、紗希さん。夜分にすまない。正式な打ち合わせは改めて送る予定なんだが……』
「いいえ。何かありましたか?」
『青木産業全体の新イメージCMの発表パーティーのことは聞いているかい?』
「……いえ、まだ」
『そうか。その発表パーティーに君にぜひ婚約者として参加してほしいんだ。……当日は白川篤もくる。なぜなら彼が、CMのメインとなる役者だからだ』
紗希の中で即座に、昼間のことが思い起こされた。
篤に耳元で囁かれたこと、抱き寄せられたこと、様々なことが行き交う。それから情熱的で真っすぐな告白。
(……『僕はあなたが好きだ。どうか結婚を前提に付き合ってほしい』か)
頭の中で繰り返される篤からの告白に、紗希の背筋がぞくりとした。篤がどうしてあれほどの好意を自分に抱いているのか、未だに紗希は納得できない。
(……でも。私にとっての昇吾さんが、篤お兄さんにとっての私だとしたら、少しは納得できるかもしれない)
そんなことを考えていた刹那。昇吾が電話の向こうで小さくうめいた。
「昇吾さん?」
『……いや、すまない。少し用事ができた。また、連絡する』
「はい。分かりました。おやすみなさいませ」
『っ、あぁ、おやすみ……』
いったい何だったのだろう。紗希は困惑しながらも、昇吾との電話を切る。
(単なる確認のための連絡? それにしては、なんというか……歯切れが悪いような……)
紗希は何も言えなくなる。今日はあまりにも、考えることが多すぎた。考えることは大切だが、今はもう限界な気がしていた。
「……メイク落とそう」
風呂場へ向かう紗希の足は、とても重かった。