自室に戻った紗希は、今得た情報をプライベート用のスマートフォンに書き付けて整理していた。
「母が自殺したのは本当。だけど対外的には心不全と公表したのね……私の中でそれが2つとも事実として記憶されていた、ってところかしら。でも……」
和香の態度には、何か違和感がある。紗希はできるだけ慎重に当時のことを思い出し始めた。
紗希の母、琴美が亡くなる年……何か感じるものがあったのは確かだった。
「どうしてできないの!」
母が亡くなる数日前。紗希は母である琴美に、鋭いビンタを放たれた。
紗希が呆然と琴美の顔を見上げると、琴美は自分がしでかしたことに驚いた様子で目を見張る。わなわなと震えながら自分の右手を見つめたあと、紗希の頭を自分の胸に抱いた。
「ごめんなさい……」
「大丈夫。お母さん」
謝る母の背に、ただ紗希は手を回すしかなかった。
琴美が紗希に教えていたのは、計算ソフトの使い方だ。一般企業で広く使われているソフトであり、紗希も中学校で基礎的な情報は教えられていたが、琴美はそのさらに上を要求してきた。
文字の読み書きができるようになった時から、紗希は琴美より、まるで社会人が取り組むような課題にチャレンジさせられていた。茶道や華道など、お稽古事にも手を抜くことはない。紗希自身は、それこそが蘇我家のために必要なのだ、としんじていた。
紗希は必死に琴美の提示する課題に立ち向かったが、その日はどうしてもうまくできなかった。
何度もミスをした紗希が「お母さん、ごめんなさい」と言った瞬間に、琴美の右手が閃いた。母に打たれたのは、紗希にとって生まれて初めてのこと。
今になって思い返せば、母は自らの死期を悟り、紗希にどうにかして生きるすべを身に着けさせようとしていたのだろう。
「……この記憶は、確かなようね」
日記帳を読み返しながら、紗希は頷く。その後も、手あたり次第、残されていた日記帳やアルバムを調べていくと、少しずつ傾向が見えてきた。
「お母さまについて、知らない写真や日記があるわ……それから篤お兄さんとの出来事があったあたりから、日記もアルバムもまばらになっている……」
アルバムについては納得できた。
琴美が亡くなった後、紗希の父親である俊樹が後妻として明日香を迎え入れたからだ。経緯からしても、義母の明日香と紗希の関係性がうまくいくわけがない。おまけに昇吾に振り向いてもらおうと散財したこともある紗希に対し、守銭奴の気がある明日香は常に冷たい態度をとっていた。
だから写真を撮影するにしても、家族写真なんて追加されることはほとんどないだろう。
一方で日記についても、少し納得できる部分がある。
「昇吾さんの婚約者になると決まったからって、舞い上がりすぎよ……」
思わず紗希は苦笑した。
十七歳になってからの日記が、途切れ途切れになっている。たまに書いたかと思えば、昇吾が如何にかっこよかったのか、パーティーでどうエスコートされたのかという内容ばかりだ。おまけに、家のお金だけでは昇吾に振り向いてもらえないなど、文句も増えていく。
次第に文字は乱雑になり、紗希が死に戻りを経験した21歳間近になると、真琴への恨み言が増えていった。
『また真琴さんがダンスパーティーで昇吾さんのパートナーを務めたと連絡がきた。
連絡をくださったのは昇吾さんだ。
彼は真琴さんがどんなに素晴らしかったのか、どれほど素敵な女性なのかを伝えてくる。
『紗希にはない優しさがある』『紗希にはない寛容さがある』『紗希にはない……』そればっかり!
せっかく、あの莉々果と友達になって、一緒にインスタに写真をアップできたのに、そのことには何も言われなかったわ。
でも……気になることもある。どうして真琴さんがそれほどに好きなら、いつも真琴さんに言われてメールを送ってくるのかしら?
真琴さんに言われないとメールを送る気がないほど、私には魅力がないのかしら。』
紗希はその文章をなぞった。19歳くらいの自分が書きつづった文章だが、なんというか、どうして昇吾を諦められないのか不思議になってしまう。
(こんな風に扱われても昇吾さんを好きなままなのは、我がことながら、少しおかしいのかもしれない……)
自嘲気味に笑いながら、紗希は日記を閉じた。
死に戻った後も、昇吾への想いだけは強く残っている。
紗希が昇吾に恋をしたのは、いつだったか。篤との出会いより後だったことは確かだが、はっきりとした日時までは紗希は思い出せなかった。
蘇我家と青木家の事業提携が持ち上がり、蘇我家の直系である紗希が昇吾により相応しいだろうという話で婚約者となった。その婚約者となるための顔合わせの席で、初めて紗希は昇吾と顔を合わせたと思う。
紗希から見て8歳も年上の昇吾は、とても落ち着いた穏やかな青年に見えた。
(こんなカッコいい人が、私のお婿さんになるの……?)
当時の紗希はまだ髪も目も母譲りの黒色のままで、母が仕立ててくれた振袖をまとっていたと記憶している。
「はじめまして、紗希さん。青木昇吾と言います」
「はじめまして……蘇我、紗希です」
ちょこりと頭を下げた紗希は、ただただ、昇吾の美しい琥珀色の瞳が輝くのを見つめていた。
「紗希さんはまだ高校生と伺いましたが?」
「……十七歳です」
「そうか……じゃあ、自分の方がずいぶんと年上ですね。敬語は使わなくてかまいませんよ」
昇吾が優しく微笑みかけてくれる。それだけでも紗希の心臓はドキドキと高鳴った。
(この人と結婚するんだ……!)
まだ恋なんて知らない頃の紗希だが、この優しそうな人が夫になるのだと思えば、心が躍って仕方がなかった。昇吾は本当に優しくて、あっという間に紗希は昇吾のことが好きになった。
それが恋だと気が付き、やがて愛になり、どんどん深まっていく。
多分もう、後戻りできない心境なのだろう。紗希は我がことながら、そう思った。