午後8時の都心は、まだ暑さが続いている。
仕事も終わり、蘇我家へ帰宅した紗希は相も変わらない明音からの小言を受け流すのに忙しかった。
「またこんな時間。お姉さまったら、本当に仕事してきたの?」
「ええ。会社でいくつか打ち合わせがあって……」
素っ気なく、しかし一定の譲歩を見せて答えると、明音はフンッと鼻を鳴らした。
「違うわよ。男物の香水の匂いがするわ。青木様のところへ行く予定はなかったはずでしょう? ひょっとして……男あさり、とか? なぁんてね、ウソウソ」
ちらりと見上げてくる明音は、紗希が何を言うのか待ち構えている素振りをした。しかし紗希はそれ以上に大きな考え事をしていたため、素直に心当たりを口にする。
「白川様の香水かしら」
「……し、しらかわ?」
明音が思いがけない名前を聞いたとばかりに、目を見開く。
「ええ、白川
紗希はポケットに入れたままの篤の連絡先が書かれた紙を思う。
あれは、確か篤がズボンのポケットから取り出したはず。彼のつけた香水が、その時に移ってしまったのかもしれない。
篤との出来事は、義母や父には紗希が篤の不穏な行動に気が付き、止めた事実のみ伝えられている。
その後のこと。篤が言うところの、一緒に泣いたり、話したりという出来事は、当時のホテルにいた従業員たちしか知らないはずだ。
当時は琴美が亡くなってすぐに明日香たちを迎え入れたという行動もあり、これ以上外聞が悪くなることを危惧して話を広げなかったと記憶している。
(変な話ね……篤お兄さんが言う会話は覚えていないのに、どうしてこういうことはしっかり覚えているのかしら? ……)
改めて自覚した紗希が明音の表情を伺うと、明音は驚愕という単語が相応しい表情を浮かべていた。
「……どうして白川様まで」
小さな声で彼女が言うと、紗希の顔に視線で穴をあけてやろうとするかのような強烈な眼差しを放ってくる。
紗希は少しギョッとしながら、明音に勘違いがないようにと言葉を重ねた。
「あの。あくまで白川様は仕事で……」
「そう? お姉さまの魅力には、誰も抗えないのね。でも、白川様はその気でなくとも、周りはどう見るのかしら? 特に……青木昇吾様、とか」
明音がわざとらしく昇吾の名前をフルネームで呼ぶのを聞いて、紗希は少しだけカチンときた。
「……何を言いたいの?」
明音はイライラとした態度を隠さずに、盛大に舌打ちをする。
「そうよね。どうせ、お姉さまは選ばれた側の人間よ。お母さまも……」
「明日香さんがどうかなさったの?」
「ッ……お姉さまには私の気持ちなんて分かりっこないんだわ!」
大きく叫ぶと、明音はバタバタと自室へ戻ってしまった。人が様子を見に来る気配はない。普段なら明音があのように大声をあげると、すぐさま和香か掃除や食事作りに通う使用人が来たはずだ。
紗希は思わずため息をつく。
(今の時代、人を雇うのが一番、お金がかかるものね。ついに明日香さんが、働いてくださる皆さんの労働時間を短くしたんだわ……)
これまで、蘇我家には住み込みの使用人が華崎家を含めて5人はいた。しかし近年の蘇我不動産の業績悪化に伴い、家の中はまるでハリボテのようにかつての栄華をとどめるに至っている。
「……早めにこの家を出ないと」
紗希は自分自身の生活費について、収入から僅かなりとも蘇我家へと出していた。しかし、蘇我家の邸宅を維持するには、微々たるものでしかない。
だが明日香はそんな紗希の働きを認め、いずれ青木家に嫁ぐ可能性があるのだからといって、身なりを整えるための支度金などは融通を利かせてくれている。
今は良くとも、今後の蘇我家はどうなっていくのだろう。
紗希はまたも考え込みそうになり、思わず首を軽く左右に振る。両手で頬を叩き、自室へと急いだ。
部屋に入った紗希は、内側から鍵をかける。そしてホームセキュリティー用の隠しカメラやドアロックを追加でとりつけ、作動させた。
室内には掃除のために華崎家の者や家事代行のスタッフが入る場合がある。今まで紗希にとっては当然の出来事であり、特に気にもしなかったが、昨今は何かと物騒だ。
思い切って自腹で購入し、追加で取り付けたのだ。
近年は大きな屋敷に闇バイトで雇われた人間が押し入ることもある。蘇我家も、いつ狙われるか分からない。
「私の記憶が確かなら……あっ!」
埃まみれになった古びた日記帳。13年前、中学生だった紗希が母親の琴美にプレゼントされたものだ。
以来、紗希は日記やそれに類するものをずっと書き続けてきた。
「あったわ!」
思わず大きな声をあげた紗希は、急いでページをめくる。
「……ここだわ。お母さまが亡くなった日のことが……えっ?」
書かれていた内容に、紗希は唖然とした。
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お母さまが亡くなられた。
どうしてなの、お母さま。紗希を置いていかないで。
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